下半身が吹き飛ばされた赤ん坊の画像と自分との距離
都知事選でフィルターバブルとアテンションエコノミーのひどさを実感した。
「やっぱ、もうTwitterて終わってんな」と再確認してからはTwitterをしばらく開いていなかったのだが、やはり見ないなら見ないで舞台の情報や好きなラジオのイベント情報を見逃すことが何回かあり、不便だ。
少しだけなら。。と自分にOKを出してTwitterを開いてしまった。
それがまずかった。
「ごめん。グロいけど、現実を知ってもらうために流すね」(※正確な内容は覚えていないがこんな感じ)という引用RPとともに、大変ショッキングな画像を見てしまった。
ガザで、下半身にモザイクがかかり(おそらく吹き飛ばされていて腰から下の下半身がまるまるないのだとおもわれる)、青い顔でぐったりした赤ん坊の画像が流れてきた。
元のポストは現地の言葉で書かれており、読むことはできない。
※仮にここでは、その画像は現地でとられた「本物の画像」だとしておく。
見た瞬間ウッとなってしまい、胃のほうから何かこみあげてきた。
正直、数日経過したいまでも脳裏にはっきりと焼き付いている画像だ。
なんでこんなものを、何の注意書きもなくいきなり見せられ、ショックを受けさせられなければならないのだ、という怒りがあった。
同時に、「現地の人は即刻ブラウザを閉じて見なかったことにするなんてことは許されないのだから、お前も直視しろ」と責められているような気持ちになり、罪悪感でしにそうになった。
ガザのことは引き続き頭の片隅にある。生活の合間で寄付をしたりデモをしたり、できる範囲で動いている。
なのに、どうして「お前の行動はまだ足りない」と言わんばかりに、寝る前のリラックスタイムにこんな画像をいきなり見せられるのだろう...。
思えば最近こんなことばかりだ。
「ガザに目を向け、虐殺をやめさせなければいけない。」本当にそうだ。正論こそが大事だし、最後は正論しか勝たない。・・・のは頭でわかっていても、たまに体のどこかで拒否反応がでている。
「グロいでしょ?不愉快でしょ?現地ではこれが日常茶飯事なんだよ、お前は平和で安心な家でひとりSNSを見ていて、それでいいと思っているの?今すぐ虐殺やめろと声を上げなさい」と責められているように感じてしまった。
自分も社会運動をたまにしている身なので、こういうことをしているかも、反省した。少なくない人たちからミュートされているんだろうな、とも思う。
が、やっているほうはこの問題を知ってほしくて、関心のない人にも届けたくて、ショッキングな画像や動画をRPして、アテンションを引こうとする。だって声を上げる人の数の力がないと、動かないのもまた事実。
しかし、どうしてもこの件がひっかかるのだ。
自分の中に「私、けっこうボイコットやデモ頑張ってるほうですけど?世間にはガザのことなんて気にも留めず、スタバもマックも特に気にせずじゃんじゃん利用し、自分と周囲の人間だけを幸福にすることに邁進する人が大勢いるじゃん。頼むからショッキングな画像はそっちにあててくれよ」みたいな思いが渦巻いていて、それも気持ちわるかった。
学校で怒られて「だって○○さんはもっといけないことをしていると思います!!」と罪の転嫁を試みるこどもみたいで、ダサいとおもった。
一方、国のトップや発言力のある能人やアスリート、がひとこと何か発信すれば、大金を寄付しそれを表明すれば、大勢の人にそれが届き、社会が動くこともあるだろうに、それをしない。
なぜ自分は少ない給料から身銭を切って寄付をし、数いないフォロワーに向かって署名やデモの情報をシェアしているのか。微力オブ微力。現実にもほとほと打ちのめされる。
少しでもなにか変わっただろうか。パートナーにこの件をぶちまけたら、「マイハマさんの話で何かしなきゃと思ったから大使館にメールして、寄付をした。」とLINEがきて、微力だけどしないよりましかも、と少しだけ思えた。
社会に目を向ける、悲惨な状況に目を向ける、声を上げる
VS
自分の人生を楽しむ。自分のメンタルを守り、黙々と暮らしをやっていく
もう一生ここをぐるぐるしている。ほんと油断するとバランスを崩しちゃう。