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”チベットについて” ~世界一周旅日記~ チベット編 【第三章:第1話】雲と地平線の間
これまでの旅日記はこちらをご覧ください↓
チベットに入域する前に、
旅日記をより理解がしてもらいやすいように、
チベットについて書きます。
ダライラマ自伝より
1959年3月31日、
チベットを脱出して以来今日まで、
わたしはインドに亡命している。
1949年から50年にかけて中華人民共和国は
軍隊を派遣しチベットを侵略した。
それからほぼ十年間、
わたしはチベット人民の政治的、精神的指導者であり、
両国の平和的関係を復活させようと努力してきた。
しかし、それがとうてい不可能であることが
はっきりわかったので、チベットを逃れ、
外から祖国同胞に仕えたほうがまだしもだと
判断するにいたった。
チベットがまだ自由な国であったときに想いを
馳せるにつけ、その頃がわたしの生涯で最良の
日々であったことにあらためて思いを深くする。
今、わたしははっきりと幸せだといえる。
だが、今日の在り方は当然のことながら、
わたしが育ってきたものとはひどく異なっている。
ノスタルジアに耽ってみても仕方がないのは
わかっていても過去を振り返るとどうしても悲しみ
がこみあげてくる。
祖国に残された同胞のひどい苦しみようが浮かび
上がってくる。
もちろん昔のチベットが完璧だったというのではない。
しかしわたしたちの生き方はそれなりに評価しうるもので
あったと信じている。
今日、永久に失われてしまったもののなかには
保持しつづけるに足るものがいっぱいあったのだ。
わたしの生まれ故郷を訪れた時、
人びとに生活状況を尋ねると、
こう答えた。
「毛主席と共産主義、中華人民共和国
のおかげで私たちはとても幸せです。」
と。
しかし、人びとの目は涙で
いっぱいだった。
ダライラマとは?
ダライラマは観音菩薩の化身とされ、
チベット仏教の最高権威である法王として、
またチベット民族の政治的指導者として、
聖俗両面でチベットに君臨してきた。
ダライラマが亡くなると、
またダライラマはチベットのどこかに
生まれ変わると言われる。
ダライラマが亡くなると、
ダライラマ探しに選抜された高僧達が、
お告げ、
また遺言をもとに、
生まれ変わりを探す旅に出る。
14代目ダライラマ。
本名をテンジンギャツォ。
現在、インド-ダラムサラに亡命中。
1989年、ノーベル平和賞、受賞
パンチェンラマ
パンチェンラマは阿弥陀如来の化身とされ、
ダライラマに次ぐナンバー2と言われる。
パンチェンラマ10世は、
ダライラマがインドに亡命した後も、
チベットに留まった。
ダライラマ14世はインドで、
パンチェンラマ10世はチベットで、
中国からチベットを守る活動を続けた。
パンチェンラマ10世は、
1960代はじめ、
すでに大量の餓死者を出していたチベット政策を目にして
「7万語の請願書」と呼ばれる報告書を中国政府に提出して、
北京に9年8ヶ月にわたって投獄された。
その後も北京で14年間にわたって自宅軟禁され、
ようやくチベットに帰ってこれたのは1982年のこと。
1989年、チベットの公の場で、
「チベットは、過去30年間、中国のおかげで経済的な
発展をとげました。しかし、私たちは大事な
ものをたくさん失ってしまいましたね。」
と発言。
その5日後、
心臓発作で亡くなった。
その際、舌が真っ黒になっていいたと言われる。
パンチェンラマ10世が亡くなったので、
パンチェンラマ11世を探さなければならない。
パンチェンラマも阿弥陀如来の化身なので、
生まれ変わりがどこかチベットにいるはずである。
パンチェンラマ探し。
これはダライラマの役割である。
しかし、チベット人ではないはずの、
中国政府が生まれ変わりを探しはじめた。
危機感を感じたダライラマ側は、
ニマ君(チベット語で太陽君)を探しだし、
パンチェンラマ11世として擁立。
その後、
中国側は自分たちで見つけたノルブ君を
パンチェンラマ11世として擁立。
その後、
中国政府はニマ君に、
家族と一緒に北京に来るよう指示。
その道中、家族ともども、ニマ君は行方不明になった。
ニマ君は「世界最年少の政治囚」と言われる。
このことから、
パンチェンラマは中国政府が擁立したノルブ君一人となり、
実質上、中国政府はパンチェンラマの権力を手に入れた。
ダライラマ14世。現在85歳。
ダライラマ14世が亡くなったあとの
ダライラマ15世探しはパンチェンラマ
の仕事である。
ようするに、次のダライラマ15世探しは、
パンチェンラマの権力をにぎる中国側が
行うことになるだろう。
そうなると中国政府はダライラマ15世、
チベット統治の権力をも手にいれることになる。
しかし、そんな事はチベット民族は許さない。
チベット民族達は、
自分たちでダライラマ15世を擁立するだろう。
そうなると、
ダライラマ15世が二人存在することになり、
再び、チベットと中国の争いが起こってしまう。
そのような争いを憂えたダライラマ14世は、
「もう、私の代でダライラマ制度をおしまいにしても
いいのではないのでしょうか?」
と発言している。
将来、
伝統あるダライラマという言葉は無くなるかもしれない。
チベットの歴史
チベットで撮影 聖地巡礼するチベット人たち
ダライラマ14世がまだ幼かった1949年、
中華人民共和国が「チベット解放」を宣言。
中国の圧倒的武力を背景に、
1951年にチベットは中国の支配下に入った。
しかし、それでも屈しないチベット民族に業を煮やした中国政府は、
死刑にしたチベット民族の生首の写真をチベット民族に公開。
中国政府は、
チベット民族がおそれおののき大人しくなるだろうと考えたが、
逆にチベット民族の怒りに火をつけることになる。
各地で中国政府に対しての反乱が起こる。
しかし、多勢に無勢、もともと戦うことを嫌い、
戦闘訓練をしてこなかったチベット民族がかなうはずがない。
これ以上、
戦闘でのチベット民族の死者を出したくないと考えたダライ・ラマは、
戦闘を終了させるため、チベットを離れ、インドに亡命する。
このことによりチベットは最高権威の法王を失ったことになる。
この時からチベットは完全に中国の支配下に入った。
そして、現在、チベットはチベットという国ではなく、
中国チベット自治区という形になっている。
チベット人のお風呂事情
チベット人は人生でシャワーを3回しか浴びないと言われる。
生まれたとき、結婚したとき、亡くなったとき
なので、洗わない髪がナチュラルドレッドヘアーになっているチベット人もよく見かける。
コルラ
コルラとは、仏塔や仏像、
聖山など神聖なものの周囲を巡って、
巡礼することで、
仏教徒は時計まわりに周囲を巡って巡礼する。
チベットの鳥葬
なぜ、人は、動物を食べるのに、
自分を他の動物たちに与えないのだろうか?
チベットの鳥葬の文化の話題になると、
そんな事を考える。
人が亡くなった時に、遺体をハゲタカなどに食わせるのが鳥葬。
鳥葬の前に魂を抜く儀式をしているため、
鳥葬の時点では、魂はすでに肉体を離れて、
次の転生へと旅立っている。
心が抜けてしまった肉体はすでに不要であり、どうせ要らないものなら、
他の生き物のために役立てようという利他の精神にのっとっている。
遺体は専門の職人がナタをふるって解体する。
遺体は食べやすいように細かく砕かれ、団子状にされる。
以前、西洋人がこの鳥葬の風景を写真におさめて公に発表したため、
現在、外国人が鳥葬を見学することは禁止されている。
五体投地
これは、自分の生家から聖地ラサに巡礼する際、
文字通り、五体を地面に投げ出し、
尺取り虫のように、 大地にひれ伏してはまた立ち上がり、
また五体を地面に投げ出すという、
とてつもなく時間を要する神聖な巡礼方法。
生家からラサまで、
1000kmほどの距離がある人もいて、
その人たちは、その道のりを長年かけて五体投地する。
その際、途中で力尽きる人もいる。
聖地ラサでは、
ラサにたどり着いたチベット人たちがひたすら読経しており、
低い読経の声が反響して周囲に響き渡っている、
その迫力には鳥肌がたち、
感動で涙が流れる。
ラサにて撮影 五体投地で祈るチベットの人たち
マニ車
経文を円筒の内部に納めたもので、
手に持てるものから、人間より大きいものまで大きさは様々。
時計回りに1回まわすと経文を1回読んだことになる。
ラサへの道
中国本土からチベット自治区ラサへと向かう道は
いつくかあるが、
今回は、川蔵公路南ルートでラサへ向かうことにする。
ラサへの道中、非開放地区を通るので注意が必要になる。
ラサに着けば、ラサは開放地区なので安心である。
また、その後、ラサからネパールへも向かうが、
このルートも非解放地区を通るので注意が必要になる。
川蔵公路南ルートで成都からラサにたどり着くまでに
通過する主要都市を示す。
成都(チョンドゥー)→カンディン→リタン→バタン→マルカム→
ゾゴン→ポムダ→パシュ→ラウォ→ポメ→タンメ→
ルナン→ニンティ→パーイー→拉薩(ラサ)
黒塗りした、
マルカムからパーイーまでの都市が非開放地区になる。
ラサからネパールにたどり着くまでに通過する主要都市を示す。
拉薩(ラサ)→シガツェ→ラツェ→ティンリ→ニャラム→ダム→カトマンズ
黒塗りしたラツェからニャラムまでの都市が非開放地区になる。
ダムはチベットとネパールの国境の町である。
カトマンズはネパールの首都である。
開放地区と非開放地区
開放地区とは外国人でも旅が自由にできる地区。
非開放地区は中国人、チベット人以外は入域が許されていない地区。
非開放地区の中には許可証があれば入域できる地域もあるが、
入域自体が認められていない地域がほとんどである。
このような地域を通過する場合、
中国警察、チクリ宿(外国人が泊まっている事を中国警察に通報する宿)に気をつけ、
町での移動や町での食事は、
警察が仕事をしていない、
明け方か、真夜中に実行する必要がある。
チベットの事を知るために参考になるもの
映画
クンドゥン
セブンイヤーズインチベット
書籍
チベットわが祖国-ダライラマ自叙伝
チベット旅行記
<次号の旅日記は9月7日です!>
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