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偏見シリーズ

聲の大きい人

 不必要に聲が大きい人は、頭が惡い。ここでいふ頭の惡さとは、莫迦であるといふ意味である。

 一應、辯解しておくが、職種や學歴は關係ない。さういふことで人を判斷したくないし、この偏見には當てはまらない。

 大抵の場合、聲が大きい人は無意識のうちに大きい。或る説では、耳が惡く自分で自分の聲が聞きにくい所爲だといふ。

 或ひは、野良仕事や建設土木業に從事する勞働者などは、現場での意思疎通の爲に、大きな聲で會話することがあるかもしれない。ボソボソと小聲で何か云はれても聞こえない。それでは困るのだらう。

 さういふ譯かだうかは人に依るだらうが、いずれにせよ、必要以上に聲が大きいことは良いことではない。下品で恥ずかしいし、周圍の人のことを考へることが出來ない莫迦である。

筋肉トレーニングをする人

 世の男たちの一部、もしかしたら女の人の中にも、精力的に筋肉トレーニングに励まんとする人種がゐることが分かつてゐる。

 サッカーや野球などの球技、劍道や空手などの武道、或ひはマラソンなどの有酸素運動など、スポーツは多種多樣である。これらのスポーツをするのに伴つて筋肉トレーニングに励む人々について、まずは書いてみる。

 そもそも、運動を好む人間は總じて愚かであるといへる。例へばサッカーを始めるとする。初めはボールを扱ふ技術が未熟であり、體力も發達してゐないので、試合をしても上手くいかないであらう。ところが次第に技巧や體力が向上すると、パスやドリブルが試合で通用するやうになる。勝ち負けが氣になるやうになり、更に切磋琢磨し勝利せんとする。勝てばチームメイトと互ひを讃へあひ感動の涙を流し、負ければ泥にまみれながら悔し涙を流す。しかしどちらにせよ、結果に關はらず感情が動くのだ。それの繰り返し。一體何の意味があるのだらう。

 私自身も幼少期よりサッカーや水泳などを嗜んだ人間であるが、これらの恥ずかしさを堪へきれなかつた。いゝ歳して運動に本氣になれる人間は、生産的な生き方を知らない悲しい人間である。

 次に、筋肉トレーニング自體が目的になつてゐる人々についてだ。

 體を鍛へ、胸や腕、脚に筋肉がついてゆくさまに悦びを感じたりする。自分の肉體が強くなることで自信が沸き、前向きな思考が出來るやうになる。生き方をより良く變へられる。

 ところが實際はどうだらう。惱まされてゐる問題の根本は解決せず、單なる逃避である。また、肉體の維持にはそれなりのエネルギーを必要とする。継續させるのは難しいだらう。筋肉はあくまでも飾りだ。

 いずれにせよ、殆どの人間にとつて筋肉トレーニングは自己滿足以外の人間の幸福に寄與しない徒勞である。割り切つてやつてゐるなら宜い。さうでない樣の人をみる時、その人は自分の生い立ちやこれまでの生き方にコンプレックスがあるのでは、と感じてしまふ。

 私は、さういふ人々が運動や筋肉トレーニングを通じて、何か人生の意義みたいなものを得られんことを願ふのみである。

 なお、肉體勞働者やスポーツ選手たちのやうな、トレーニング次第では稼ぎになる人々については、その限りではない。

服裝に拘る人

 外見はその人を表すといふ。見た目がだらしない・ダサい人は内面にもさういふ傾向があり、また逆も然りだ。

 ビジネスの世界でも、きちんと服裝や髪が整つた人は信用される。ビジネストークにも説得力があり、信頼感を持たれるだらう。

 さういふ面だけでなく、その人の經濟的狀況をも垣間見える。仕立ての良い上質なスーツを着こなす紳士は、それなりの稼ぎがあるやうに見える。見窄らしい格好の人は、賤しい身分の人かなと思ふ。そんな感じで、服裝を整へることは必要だと思ふ。

 然し問題は、過度に服裝に拘る人々である。その人自身に魅力が無いのにファッションの蘊蓄を語る者は、とても恥ずかしい。しかもさういふ人はさういふ匂ひを釀す。周圍にはなんとなくわかつてしまふ。

 ここで大事なのは身分相應なことである。私自身、服のあれこれを考へるのは好きな方であるから、身の程を辨へた格好に注意が必要であると痛感してゐる。

總括

 以上は私がもつてゐる偏見の一部である。假にあなたが上記の偏見に當てはまつてゐたとしても、氣にしないでほしい。あくまでも私の偏見であるから。

 しかも、私自身も當てはまる部分についてはそれを否めない。或ひは自分にない部分についても、多少の僻みみたいなものもある。

 讀者諸君には、讀者諸君それぞれの考へに基づき、よりよい生き方を見つけて慾しい。その一助になれば幸いである。

「偏見シリーズ」完
2023年4月17日

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