戯言集第三章 喫煙道樂
昨今、煙草は百害あつて一利なし、と叫ばれて久しい。かつて喫煙習慣があつた人も禁煙に勤しむことは珍しくない。そんな中、喫煙道樂を改めて説かうといふ試みは、社會の風潮に反してゐるといへる。
まず第一に私が聲を大にして云ひたいことは、個々の喫煙習慣の所以である。人それぞれであらうが、これが本質的な議題である。
煙草には中毒性があるといふ。ニコチンの作用から、暫く吸はないでゐると煙草が切れて、吸ひたくなる。吸へないと苛々する。吸ひたくて堪らなくなる。それで辭められないといふ人も多いことだらう。
私の個人的な意見であるが、上記の中毒者は極めて不幸であらう。よくないと思ひ乍らそれを辭められないのは、愚かなことこの上ない。
一方、この喫煙習慣を道樂として、趣味として嗜むことは、非常に高尚な嗜好で面白いことだ。どうせならこの立場でありたいものだ。
第一に煙草は美味いものだ。それを感じられない人は煙草を吸ふ必要がない。
私が現在愛飲してゐる煙草は、所謂ロングピースといふ煙草である。
ピースの何が美味かといふと、その香ばしい辛さとマイルドな甘さとを兩立した深みのある味はひである。カリカリのトーストに生クリームを載せたやうな趣き。
その中でも、フィルター附きのロングピースこそが、私に合つてゐるやうな氣がしてゐるのである(邪道かな)。
たまたま私にとつてはロングピースがさうであつただけで、人それぞれ好みがあるのだからそれがマルボロであらうがセブンスターであらうが、自由なのである。
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私が大學生の頃、手巻き煙草を吸つてゐた時期がある。これの嗜好性について記述しようと思ふ。
手巻き煙草とは、シャグ(煙草の葉)、巻紙、フィルターをそれぞれ個別に買ひ、自分で巻く煙草である。なかなか面白い趣味である。
私のお氣に入りはマックバレンのハーフスワレといふものであつた。所謂黑煙草に凝つてゐたのである。
黑煙草は煙草の葉を醗酵させ獨特の味と香りを感じさせる。フランス煙草(ジタン、ゴロワーズなど)に多い。やゝ玄人好みである。市販する黑煙草は種類が多くないため、選擇肢は限られる。
巻紙は、手巻き煙草と紙巻き煙草の最大の差異であらう。私はRAWの巻紙を好んだ。
紙巻き煙草の巻紙は、燃燒劑が溶かしてあるために雑味を含む(ゆゑに、紙巻き煙草は途中で火が消へることがない)。一方で手巻き煙草用の一部の巻紙はそれを含まない。煙草本來の味を樂しめる。
フィルターもやはり種類が多いのであるが、私は煙草の味と吸ひごたへが強いものを好むため、長さはショート。長さはこれらに關係する。よりマイルドなものを好む人はロング、チャコールフィルターを選澤するとよいだらう。
手巻き煙草の億劫さは、その嗜好性ゆゑの難しさにある。シャグが乾燥すると辛くなるため、可能ならば吸ふ時に都度巻くのがよい。出先では不便である。また、シャグや巻紙はその邉のコンビニなどには賣つてゐないため、切らした時に困るのである。
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今後、更なる喫煙道樂の展望としては、パイプ煙草への挑戰がある。未だ未經験の領域である。
まず第一に、パイプの種類の膨大さ。形狀、素材、等々が數多く、それによつて味や吸ひ易さが變はるらしい。
第二にシャグの探求。市販の紙巻き煙草より遙かに品質も高いらしく、種類も豊富。また、複數のシャグをブレンドして新たな吸ひ方を作ることもあるやうだ(珈琲みたいですね)。
以上のやうな道樂としての煙草は、死ぬまで忘れたくない趣味の一つとして心に刻まれることだらう。喫煙所の撤退、價格の高騰が進めば進む程、嗜好品としての煙草はその輝きを増すに違ひない。
令和七年二月十七日