Reality:切磋琢磨というのは、無責任な大人の理想論である。
「集団授業だと切磋琢磨がないですからね〜、やっぱり周りに揉まれながら・刺激されながら成長していかないと」
集団授業型の学習塾が、個別指導型を下げる際にお決まりのセールストークである。
率直に申し上げると、
「切磋琢磨」と聞いて悪い印象を持つ親御さんはいない。
それだけに、親御さんに高い確率で
「確かにそうかもな…」
と思わせることができる殺し文句・キラーフレーズなのだ。
特に親御さんか子供、ないしその両方が体育会系だと効果抜群だ。
だが、ここで真実をささやいておかねばならない。
部活や仕事などにおいては切磋琢磨は一定の効果を発揮するが、
勉強・勉学においては切磋琢磨は裏目に出ることが少なくない。
スポーツは他人から刺激を受ける価値が大いにある。
ビジネスも他人から刺激を受ける価値が大いにある。
だが、勉強で同じことをやってはいけないのだ。
もちろん仲が悪いよりは良い方がいいし、適度な交流も大切だ。
ここでお伝えしたいのは、
他の誰かと100%全く同じやり方で伸びる人はいないし、究極はその子ごとに辿る道が違う
ということだ。
比べても意味がないのだ。
英単語一つとっても、
覚え方も、ペースも、目標も、全てバラバラである。
勉強における切磋琢磨というのは、
これら個人の違いを全て無視して
「あの子に比べてお前はダメだな」
「あの子がこの方法で頑張っているんだから、お前も絶対合うはずだ」
という意見を子供に押し付けてしまう。
これでは学習効果は上がらないし、
何より子供のやる気という点においても何より避けなければならないのだ。
もちろんある程度の「王道」はあるにせよ
その上でどう感じるか・何が課題になるのかは一人一人バラバラだ。
単語のどこで引っかかるか。
文法のどこで引っかかるか。
発音のどこで引っかかるか。
さらにはそこに「やる気」という超・主観的な指標も加わる。
例えば
「やる気がないならないなりにやりなさい」
というのは現時点で一定水準以上勉強ができるからこそ可能な発想であり、
現時点でできない人はやる気がなかったらただやらないのみである。
それも含め、一人一人ごとにバラバラなのだ。
もちろん、
「一人一人全部バラバラなので、一人一人その場で一から全部考えます」
というのでは時間が何百年あっても足りないから、
「こういう傾向のミスが多い」
「ここでつまづく人にはこれがいい」
といったある程度の模範解答はある。
「一人一人全部バラバラなので、一人一人のために別々に学校を作ります」
というわけにはいかないから、
便宜上学校・塾という場所を作って
「過半数にとっての答え」をそこで教える。
もちろん、
「あの子には負けないぞ!」
というのをやる気に変えられる子も存在する。
でもその子にしても、
その「あの子」と全く同じ練習をしていたら「あの子」に一生勝てない。
そこで練習方法を工夫したり、量を増やしたりする。
それはつまり、
全く同じ方法は一つもない
ということに他ならないのではなかろうか。
偏差値という制度がある以上、最終的に比べられることになるのは当たり前だ。
だがここで私が言いたいのは、
他人と比べることができるのは得点や偏差値といった数字のみである
ということだ。
中身・プロセスまで比較しても何もいいことがない。
…筆者、透佳(スミカ)