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掌編小説「子守歌」



 赤ん坊か……。

 笹倉貴志は、煙草の煙を燻らせながら、これから行く友人宅での幸福を祝う自分を、頭の中で繰り返しシミュレーションしていた。

 何年ぶりだ……?

 溜息が何度も出ていた。
 自分の身の上に起きた出来事を吐き出すように。
 そんなことをしても、何にもならないとわかっていつつ、それでも肩を揺らして息を吐く。

 子供を亡くし、完全に家族を失ってからの自分の過ごしてきた日々を振り返る。
 つくづく月日は過ぎただけの、心は置き去りにしたまま変われぬものだと再び深い溜息を吐いた。
 職場の同僚などは、そんな自分を腫れ物に触れるかのごとく扱い、それに甘えて、結婚や出産の祝いごとの噂を聞いても、素通りしてきた。

 おめでとう。

 たった五文字のその言葉を言えなかったのである。

 どれほどの苦しみか想像もつくまい、経験したことのある者以外にはわからんさ、そんな風に祝いの言葉より呪いの言葉を吐きそうになる自分を必死に抑えてきたのだった。

 子供の死を乗り越えられず、張り裂けそうな思いを誰にもぶつけられず、どこにも叫ぶことが許されず、何にも当たれず、それでも歯を食いしばり、守るべき妻を支え続けた。

 だが、やがて、日増しにひどくなる妻の言動を受け止められなくなり、医者に預けると、そのことを責められ、家にいることを許されなくなり、出るほかなかった。

 家に戻れなくなったのだった。

 しばらくした後、実家に離婚届と慰謝料の請求書が郵送で届き、断わる為に何度も足を運んだが、一度も姿を見せてもらえなかった。
 仕方なく請求金額を支払い、家はそのまま住めるように手続きをし、離婚届を役所に出した。 

 ……あれから十年か……。

 おめでとう。

 どうしても言えなかった言葉。

 だが——。

 大親友の澤村あきらと瑠璃子の間に子供が生まれたと知らされては流石に見過ごせず、勇気を奮って出向くことにした。

 なのに、澤村の自宅の最寄り駅の溜池山王駅に降りてからは、なかなかその先に進めずにいた。

 喫煙所を出れば、連日猛暑の日差しを浴びることになり、それを理由にしている情けなさに苦笑する。

 四十代半ばの高齢出産であったが、母子ともに健康で、無事を祈っていただけに自分のことのように喜び、思わず祝いに駆けつけると言った。

 ……意気地がないぞ。

 一歩が出ない右足を軽く左足で蹴り上げる。
 すると手土産で持っていた紙袋が、がさりと音を立てた。
 その袋にはネットショップで買った玩具が入っている。
 いずれ喜んで遊ぶようになること間違いない一品である。

 知っている。

 赤ん坊がどんなものを喜ぶのか。
 どうしても浮かんできてしまう。
 愛しくて堪らなかったその姿。
 きゃっきゃっと声を立てて全身を使って喜ぶ姿が。

 拳を握る。

 ……行くぞ。

 そうだ。

 祝ってやるんだ。

 おめでとうと言ってやるんだ。

 

-----

 

 首都高速道路の高架から離れたところの住宅街は閑静で、コツコツと靴音が響いていく。
 何度となく通ったその住宅は見慣れていたものだったが、その日はいつもと違って見えた。

 取り巻く空気が違う——。

 そんな感じがしたのだ。
 何か清浄なものを感じ取っていた。
 ドアフォンを押すと、澤村が出て、早速玄関扉が開かれる。

 なぜか緊張した。

「よお。よく来たな」

 学生時代から変わらぬ笑顔で言われる。

「おお。久しぶり。いやあ、今日も暑いな」

「まったくだな。早く上がれよ」

 澤村が独身の頃には勝手知ったる、と言わんばかりに入り込んでいたが、今はそういうわけにもいかないと丁寧に靴を揃えながら框をまたいだ。

「これ。まあ、つまりお祝いだな」

 おめでとう……と、勢いで言おうと思ったが言えず、照れを隠すように祝儀袋と一緒に紙袋を渡す。
 すると、澤村は表情を曇らせた。
 受け取るのを躊躇する。
 軽く舌打ちした。

「いいか。変な気を使うな。言っただろう?」
「ああ。わかった。すまん」

 頭を深く下げながら、何度も有難うと言う。
 すると、赤子を抱いた瑠璃子が姿を現した。

「笹倉さん、いらっしゃい。お待ちしておりました。おいで下さり有難うございます」

 輝くような笑顔と張りのある声だった。
 元々の美貌に加え、艶やかさが加わったと思った。
 子供を産んだ後の女性の輝きというのは神々しいものがある。

「やあ、瑠璃子さん。相変わらずお綺麗ですね」

 澤村が咳払いをしてにらむ。
 お前……、と文句を言おうとしたところ、赤ん坊が泣きだした。

「おや。知らない声を聞いて驚いたのかな。さすが澤村の子だな、耳がいいな」

 音楽家として名が知られてきた澤村は特別の耳を持っている。
 音大時代にはその能力と繰り広げられる音楽に嫉妬をしたものだった。
 自分が音楽プロデューサーになってからは、澤村をバックアップする立場に落ちつき、一番の友となった。

「はは。危ないおやじが来たと察知したんだろう」
「ふん。あれ、名前はなんだっけ」

 首が座らない状態で精いっぱい泣く。

「藍子だ」
「ふーん、あいちゃんか」

 瑠璃子に抱かれて揺らされているにも関わらず、大きな声をあげる。
 あらあら、どうしたのかしら、おなかはすいていないはずなのに、と言いつつ、困った顔をして澤村を見る。
 澤村が抱こうと手を伸ばした。

「俺に任せろ」

 思わずそう言った。
 体が自然に反応したのだった。
 夜泣きが止まない赤ん坊に困り果てた妻から貰い受けるように抱き、しっかりと抱いた時のことがフラッシュバックしてくる。

「ほら」

 瑠璃子から渡されると、藍子の体からミルクの匂いが立ち、鼻腔をくすぐった。
 あまりの懐かしさに眩暈を覚える。

「よしよし」

 首をしっかりと押さえて抱きしめる。

 ——あなた。お願いします。

 妻の声が甦る。

 ——どうしても寝てくれないの。お腹いっぱいのはずだし、おしめも取り替えたばかりなのよ。

 泣いてばかりの子供の世話に半分ノイローゼ気味だった。
 そんな妻を労わることが自分の役割だと思っていた。
 わかっていた。
 母親が苛立っているから赤ん坊がそれを察知して不安になっていたのだと。
 だから、仕事をなるべく早く切り上げるようにし、子供の世話から解放させていた。

 ——どこか痛いのかしら。

 育児書ばかりを頼りにしていて悲観的に考えがちだった。

 ——大丈夫だよ、きっと機嫌が悪いだけだよ。どれどれ。

「よしよし、いい子だ」

 藍子が次第に泣き声を小さくし、しゃくり上げる。

「ほーら、大丈夫だ。なあ、気持ちいいかな?」

 体を揺らして、歌を歌う。 
 自然に出てきた。
 自然にその歌が出てきた。今まで忘れていた歌だった。
 自分の作った子守唄で、それを歌えばいつも泣き止んだ歌だった。

 ——おはよう。おやすみ。

 忘れていた。
 それが自然に出てきたのだった。

 ——幸せの呪文。

 囁くように歌う。

 ——楽しい夢見よう。

 藍子がすうと眠りに入る。

 ——明日もいっぱい笑ってね。

 声が掠れた。
 すると声が出なくなった。

「笹倉……」

 そう声をかける澤村のほうを見ると、姿が歪んで見える。

「笹倉……。ありがとう」

 妻の姿が重なる。

 ——ありがとう、あなた。

 澤村が深くお辞儀をした。

「ありがとう」

 ——お仕事でお疲れなのに、いつもありがとう。

 涙ぐみながらよくそう言っていた姿が。

「いいんだ」

 息を大きく吸い込む。
 言いたいと思った。

「澤村。おめでとう」

 了


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