「普通に考えて」「常識的に」という言葉が苦手だ
皆さんこんばんは。澄田美稲です。
私には好きな言葉と嫌いな言葉、そして苦手な言葉があります。まぁ別にこれ自体は大して珍しいとかそういうことでもないと思います。別のnoteでまた書きたいですが、好きな言葉は
“美しい”
という言葉です。
嫌いな言葉は
“あなたの命はあなただけのものでは無い”
です。
そして苦手な言葉が今日の本題である
“普通に考えて” “常識的に”
という言葉です。
この言葉は日常の中でもよく使う方が多くいらっしゃるのではないかと思います。別にこの言葉を使う方は嫌いです、とかそういうことでは無いので安心してください。はっきりいうとこの言葉は「嫌い」なのですが「苦手」にせざるを得ません。なぜかというとこの言葉を使う人はあまりに多いので「嫌い」にしてしまうと対人関係に支障が出かねない、というのが表向きの理由で。本当の理由は私もこの言葉を無意識のうちに使ってしまうことがあるからです。
自分が使ってしまう言葉を「嫌い」判定してしまうとどうしたって自分という存在が嫌いになってしまうので。私は基本的に自分のことを好きでいたい。嫌いな自分で居たく無いので、改善の余地を残せるように「苦手」にしています。びっくりするくらい便利な言葉なのでうっかり使いそうになったりして、なかなか改善されないので効果がないのも事実ですが。
これらの言葉が苦手な理由はたくさんあります。
第一にあげられるのが先ほど書いたように「あまりに便利な言葉」だからです。というか、他の理由もこれに付随しているようなものです。言い方を変えると苦手な理由はこれしかないとも言えます。でもあまりに大きすぎる欠点だと私は思う。このnoteはあくまで“普通に考えて”などの言葉に対しての私見を綴りますが、序盤は「便利である」ことへの考えを述べていきますね。
便利である、というのは一見していいことのように思われますし、人類史において便利であることは絶対的な正義であり続けました。便利であることを追求しなければ人類の発展があり得なかったと言っても過言ではありません。便利であることは人を魅了し続け、発展の活力でした。今まではもちろん、これからもそうであり続ける。便利なものを使うことで子育てのあり方も変わってきている。それに対して賛否両論あるが、子育ての負担が軽くなることは素晴らしいことだし、批判されるべきではない。
ただ、世の中の大抵のものには裏表がある。便利であるということもその例外ではありません。便利であるということは、それすなわち「誰もが気軽に使える」ということです。言葉を選ばずにいうならば「バカでも使えるし、何も考えなくても使える場合がある」ということです。
レンチンの食材は経験とコツが必要だった料理を、電子レンジさえ持っていれば誰でも同じように料理にできるようにした。洗濯機は時間と労力の負担がとても大きかった洗濯という作業を洗剤を入れてスイッチを入れればできるようにしてくれた。
“普通に考えて” や “常識的に” などの言葉はろくに頭を使わずとも不特定多数を自分の味方につけられる。そんな言葉だ。
そんなことない、といいたくなる人もいるかもしれないが、事実そうなのだ。そんな魔法のような言葉なんだ。
これの何が怖いかって「明確な常識なんてものは存在し得ない」というところだと思うのです。
「常識っていうけど、何を持ってそう言ってるの?」
と聞くとしましょう。そんな性格悪い質問したことないけど。仮にこう聞いたとしたらしっかりと答えられる自信がありますか?私はないです。だから私は自分がこの言葉を使ってしまった時すぐに後悔します。
端的に言ってしまえば “普通に考えて” や “常識的に” などの言葉を使う時、その人は何も考えていないわけです。思考することを放棄し、議論することを拒否しているわけです。頭を使っていないくせに、この言葉を使った瞬間に顔の見えないのっぺらぼうの不特定多数のおびただしい数のマネキンがその人の背後に瞬時に現れるわけです。言われた側としては、これ以上相手の意見に反する発言をすると自分が非常識であるという扱いを受けることを察知せざるを得なくなる。そこで手を引くしかなくなる。
仮にこの世のすべての人が“常識”を盲目的に信じ、相反する思考を滅殺していたとしたら?
私たちは未だに太陽が地球の周りを回っていたと信じている。
私たちは未だに地球の果ては滝になっていて、地上の下では象や蛇が支えてくれていると信じている。
私たちは未だに女性が定期的に血を出すのは汚れているからだと信じている。
私たちは未だに神によって作られ、二人の男女が唐突にこの世に生まれたと信じている。
“常識”を崩さなければ、人類は発展し得なかったわけです。つまり“常識”というのは人類発展に必要不可欠であった利便性と、便利ながらに壊さなければ発展し得ないという面白い性質を持った言葉であると私は常々思うのです。
話が大きくなりました。大きくなりはしましたが、それでも伝えたいことは変わりません。私が話しているのはあなたであり、あなたの“常識”というあまりに不確定な情報をもとに現れた大勢ののっぺらぼうのマネキンじゃない。私が頭を使って頑張って自分の考えたことを話しているのに、あなたは“普通に考えて”とかいう脳死ワードに等しい言葉で応答しないでほしい。考えを変えろとは言わない。私の考えが合っているのか間違っているのかを確かめたくてあなたと話をしているのだ。考え方は変えなくていいから、せめてあなたの言葉で。あなたの考えを聞かせて。
私はあなたに対して話しているのだ。
それが対話であるべきだ。