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大人になる人なんて本当はいなくて、犠牲にできないものが増えていくだけなのかもしれない

めっちゃお久しぶりです。
澄田美稲すみだみねです。

本当に久しぶりになってしまいました。

完全に私事ですが私生活が忙しく充実しているので正直に言うとブログを書く体力が無いです。

私は文章を書くのと割とどうでもいいことを一人で「あーでもないこーでもない」と考えることが好きなので、その二つを掛け合わせたブログを趣味でやっているのですが、これがなかなかどうして。趣味で好きでやっているブログなのに、これを書くのに思っているよりも体力というか気力みたいなものを使うのですよ。

このブログは自分が以前お風呂とかで考えたことをお風呂上がりにメモ帳に簡単にまとめて、そのメモを見ながらまた頭で整理しながら書いているのですが、

別にこの作業自体は何も体力も気力も使わないんですよ。

メモするのも、それを見てまた整理し直すのも私としては自分の得意な作業なので楽しくできるのです。

じゃあどこが疲れるっていうんだと言うと、ブログを実際に書き始める瞬間ですね。

さて、時間できたし書くかぁって思ってもそこから実際に始めるまでの壁がとても高い。

このブログは多分更新を楽しみにしてくれている方がいるというよりは、

私がたまに書いたものを「書いたよー!!!」と叫ぶと

心優しい方々が「別に忙しくないし、ちょっと読んでやるか」と立ち寄ってくださっている形だと思うので、更新頻度などあまり気負いせず細々と続けていければなと思っております。


今回は表題にもあるように、「大人になること」ついて自語りをしていこうと思うわけです。

私も自分が大人になっていくことを自覚して、周りから求められていることを察していかなければいけないようになってきたなぁと最近感じることが増えました。

少し前から年齢的にはもう大人だけど、そうは言ってもまだまだ自分の好きなことを追求して、やりたい道を探して、一度歩き始めた道と並行して違う道も歩いてみたり、引き返してやり直したり、今いる道をもう少し先の方まで引き伸ばしてみたり。

やりたいことに素直に生きていけていたように思います。

私はその頃から自分のことはもう大人だと思っていて、大人だからこその、この自由度だとも思っていました。

でもそこからもう少しだけ年齢が重なって。年齢が重なってというか、自分を取り巻く環境が少し変化してきて。大人であることへの窮屈さを感じるようになってきました。

大人って、責任が伴ってくるものなのですね。
当たり前なこと過ぎて、これを読んでる人は「何を言ってるんだこいつは」と思われるかもしれませんが
ほんの数年前に子供から大人への転換を求められてきた私に取ってはこれがなかなかどうして窮屈なわけです。

私は大人になって、判断力も上がって頭も良くなってもっと多くの選択を自分でできるようになっていくのだとばかり思っていましたが、どうやら違ったようで。

大人になっても自分の内面なんて何も変わっていなくて。

ただ知識と経験が増えて、リスクばかりに目がいくようになって責任を負わされ、身動きが取れなくなっている。

やりたいことがあっても
失えない、犠牲にできないものがどんどん増えていって
そうして人は落ち着いて、大人になるんだと。

夢を追うとかそういう壮大なことじゃなくてもいい。

次の日のこと考えないで思いっきり楽しんでみたり、
後先考えず今の気持ちだけに向き合って好きな人に告白したり、
将来何をしたいか偉そうにマックに長居して語り合ったり、
眠気に負けて1日潰して、それでもいい日だったと思えたり。

何も背負わず
自分の人生だけを見つめて

真っ暗な道を見据えて
自分が歩きたい道をこれから作っていく。

そんな時代が懐かしいなと、思ってしまいます。

今の私の道は、
先を見ても大体出来上がってしまっていて。
分岐も二本、多くて三本しかなくて。

自分の歩む道がはっきりと見えてしまうことがこんなにも虚しいことだと、
数年前の私には知らないままでいて欲しいものです。


澄田美稲


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