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穏やかで緩やかな居場所って
昨日は食後。
話し合いたい議題を
ホワイトボードに書きました。
それから離れると
1人がペンを手に取り
何か書き始めました。
任せようと思って離れました。
今使えるお金を見せようとおもって
取ってきて手渡すと
お金を数える周りの人たち
それから数えた金額を黒板に書く。
『はじめの議題はお金の使い方』
だったからです。
それからペンを持った子が
みんなにどうするー?と聞いている。
すると卒業の会をしたい。
と答えがくる。
要するに
ミーティングが勝手に進んでいきました。
司会は誰かとか決めなくてよかった
さぁ始めましょうとか
しなくてよかった。
しばらくすると
走ってる人がいたので
話に入ってほしいと頼んだら入ってくれました。
議題は勝手に二つ目になっていて
『クリスマス会に何をするか』
『おやつパーティ」とか
「レクは俺にさせて」とか
みんなどんどん言い合って
ペンの人が書いていく
プレゼント交換をしたいという話がでたら
金額や内容はどうするのかということを
また新たな議題として出して
みんなに問うペンの人。
これこそ
司会であって
ファシリであって
まとめ役でした。
彼女にはそういう力があったんだと
気付く瞬間でした。
もしも
それを私が誰かにやらせていたら
こうはならなかったと思います。
たとえ彼女に頼んでいたとしても
彼女は度々私に進め方を尋ねていた
と思うし
こうならなかった。
それから
途中で
寸劇が始まったり
隣にあった
ホワイトボードに落書きが始まったり
することがありました。
私が前にいたなら
やめてほしいと言っていたかもしれないし
イラついていたかもしれないし
モヤモヤしてたかもしれないです。
私は同じように笑ったりしていたし
ペンの子も一緒に落書きを始めたりして
小学六年生でも
中学生でも
みんな子どもで
楽しそうな方に体は動き
流れていくのが普通なんだな
と感じるとともに
別にそれでいいよねと思いました。
議題の結論、結果は彼らが受け取るのだから。
私がとやかく言う必要がない。
議論が長くなっても
後にやるアトリエの時間が短くなるだけで
それも彼らの問題だから。
クリスマス会になにを食べるかというところで
乳製品のアレルギーが疑いのある子がいるとわかるとすかさず
ケーキをやめるという流れになりました。
彼はいけるかもしれないし
母に確認すると何度も言ってたので
私はスポンジ台とフルーツとクリームを買って
それぞれデコレーションしたらどうか
という名案を出したつもりでしたが
時間かかるとか言われて
却下でした笑
結局30分くらい話し合って
クリスマス会はどうするかの話がまとまりました。
私はただ参加者でした。
ペンの人も含めて7人の会議。
とても緩やかで楽しい話し合いでした。
こんなふうでいいよね
こんなふうがいいよねと思います。
最近よく思うのは
きまりや規則、ルールや
大人によるコントロールなどの
『枠』の必要性は
その集合体を構成する人数に比例する
ということ。
だから緩やかで穏やかな集合体を作りたいなら
人数は少ない方がいいと思うのです。
だけど子どもは
家族という集合体から
保育園や幼稚園
それから学校
そして社会と
より大きな集合体へ
関わっていくときがきます。
学校が少人数制であればいいというのは
言うまでもないけれど。
硬く厳しい『枠』に
立ち向かうために
より緩やかで穏やかな集合体が
そばにあるといい。
昨日走ってた彼は
朝のハッピータイムで
「いろいろしんどいことがあるし
ここに来れてよかったなと思いました。」
と言ってました。
私はそういう場所を作っているんだと
改めて感じました。
私の中で勝手に出てくる
コントロール欲とか
こうすべきみたいなものは
家庭や学校や培いました。
仕事でも子育てでも
毎日毎日
私の中から
出てきては
手放し
出てきては
手放すの繰り返しをしています。
それは必要なくて
むしろないほうが物事はうまくいき
ないほうが心地よい。
流れたいほうに流れてみる。
心地よくなくなったらやめる。
本当は
家族も社会も全部。
そうだったらいいのだけど
そうもいかないのでやっぱり。
心地よさを感じられる居場所を。
つくり続けるのが私の役目かなと
改めて思いました。
書くと
自分の中にある
もやもやふわふわしたものが
すとんと形になっておちるので
書いています。
読んでもらってありがとうございます。