過干渉と無関心
私の母は、子どもに対して過干渉と無関心が混在していたな、と思う。
例えば家の中の生活のことでは一挙一動に口を出していた。特に節約と自然食品への拘りは強かった。節約に関してはこちらの記事に詳しく書いている。
我が家では甘いもの(白砂糖の入っているもの)が一切禁止されていた。外で甘いものを食べてくると叱られる。友達からのお菓子のプレゼントは没収。お菓子は母の手作りで、小麦粉の代わりにふすま粉という謎の美味しくない粉が使われていた。甘くないので悲しいほど美味しくない。米も一時期玄米になったが、子どもたちがあまりに食べないので白米に戻された。こうして書いていると、過干渉というより母の強すぎる思想というか、拘りだったのだな、と思う。
一方で、家の外でしてくることについては何も言われなかった。門限もない。8才の時、遊びに夢中になっていたら夜8時になっていた。当時北海道に住んでいて、夏至近い北海道は8時近くになっても明るかったのだ。怒られるかと思いながら帰ったら、怒られなかった。普段家の中で怒られてばっかりなのとは対照的に。勉強しろとも言われたことがなかった。テストや通信簿にも関心がない。進路に口を出されたこともなかった。高校も専門学校もひとりで決めた。お金だけは出してくれた。
家の中での過干渉はつらかったが、その他の無関心について、悲しいながらも、それで助かった面があるのかもしれない。
家の外で遊んでいるとき私は自由で、空想好きな子どもだった。大好きなアニメのシーンを思い浮かべながら北海道の大地を転がり遊んでいた。河原で今思うと危険な遊びを沢山した。図書館も大好きだった。物語の世界は広大で、どこまでも行くことができる。あらゆる体験ができる。読書は家でしていても叱られることはなかった。母も読書家だったからだ。読書をしている時間は自由だった。
こういった「余白」がとても大切だったと、今になって思う。その時の思い出に今も救われて生きているからだ。これは「自分の世界を持つ」ということだ。子育てで言えば、「子どもの世界を尊重する」ということになると思う。自分の世界をしっかり持つというのは、周りに惑わされずに自分のやりたいことをするため必要なことだ。「生きる力」とも言えるのかもしれない。
現代の日本は少子高齢化だ。子どもが珍しい存在になっている。子育てに関する情報はあふれ、貴重な存在である子どもを大事に大事に育てなければ、という社会だ。
ふと、子どもが子どもだけで大切にできる世界はあるのだろうか、と疑問に思った。下手をすると、社会全体が過干渉になっていないか、と。
過干渉はつらい。自分を生きる余地がなくなってしまうからだ。私は今でも家の中にいるのが苦手だ。何かを自由に考えたいときは外へ、だいたいはカフェに行く。母から外でのことまで口煩く言われなかったことは幸いだったと思う。我が家の場合は無関心が過ぎて、私が事件に巻き込まれずにいたのは運が良かっただけなのだが。
子どもの安全を守ることと、子どもの世界を尊重すること。それを両立するのはとても難しいのかもしれない。ただ、子どもが息苦しく生きていないか。時々にでも、それを考えてみるのは大事なことのように思う。