認識を揺らす
これは相手にとって特別な話だったのか、何気ない話だったのかはわからない。けれど間違いなく僕にとっては日常風景だ。
「フェスをしたい。」と彼が言った。
「フェスですか。」
「三笠公園でレゲエのフェスがあったんすけど、めっちゃ良くて。人が集まると熱量が上がってめっちゃいいんですよ、それをみんなで感じたい。」
「みんなで。」
「そう……」
熱量を感じた。感じたのだが、何か言葉が噛み合っていない。さもスターに憧れたかのような言葉が出てきている。理解とは程遠い言葉遣い。
僕の問いかけはいつもここから始める。
「人が集まったら熱量が上がるって言ってますけど……そうですね……極端な話、武道館と近所の広めの公園だったらどっちがいいですか?単純に人が集まるほどいいなら武道館になりそうですが……」
これを読んでいるあなたなら、どう答えるだろうか。
アイドルの輝きを自らがやることを求めるだろうか。
あるいはそれはあくまで手段であり、自らの栄光を謳歌するための資金調達と見るだろうか。
あるいは、地元の祭りが活気付いている様を思い浮かべるだろうか。
あるいは、「◯◯さん」と言うのが恥ずかしくて「みんな」と称しただろうか。
輝きなのか、熱量なのか、それとも他の軸があるのか。それが気になって、ゆさぶった。
僕は曖昧で不確定で、あいのこになっていることを観るために、こういう極端な例をよく持ち出す。極端な例を2つも持ち出せば、必ずどちらかには違和感が出る。そこから自分の言葉が生まれてくる。
彼は1〜2分考え込んだ。そこから出てきた言葉は少し強くなっていた。
「俺はいずれ武道館に行きますよ。」
「オッ、大きく出ましたね」
「でも僕が『フェス』って言ってるのは確かに武道館ちゃいますね。武道館は一人で立つものですから。」
「今はみんなで。」
「そう、みんなで。」
彼は今、仲間とやることを求めている。あるいは「既に熱くなっている人と仲間になる」なのかもしれないけれど。それはどっちでもいい。
「みんなって、色々あると思うんですけど、どうなんですかね。岡山とか、大阪とか、横須賀とか。」
ここでもう一度立ち止まり、揺さぶる。具体に寄り過ぎたイメージと、抽象に取り残された感覚をつなぐ。
「……いつか岡山に返せたらいいと思っています。地元ですし。」
「うん。」
「大阪ではないすね」
「うん。」
「……………でも一番は横須賀ですわ」
「うん。」
「僕は横須賀好きだし、もっとみんな面白くなれると思ってるから、それをやりたい。」
「うん。」
おそらく三笠公園だったからこそ、彼の熱量が上がったのだろう、と思った。前にも横須賀の祭りについて熱く語っていたし。水が合うのだろう。
「じゃあ、きっと横須賀のどこかでやるんでしょうね」
「そうっすねぇ……横須賀だなあ……」
5分足らずの会話だが、彼の中で何かが決まったらしい。
ストレングスファインダーも、ある側面で人格を切り取ったものでしかないが、極端な例を持ち出すほど、人は「いやそうじゃないが」と言いたくなるものだ。
僕を導くような口ぶりで、自分の内側から言葉を選ぶ。そうすると、価値観が勝手に紐解かれていき、感覚が拓かれていく。人生のバックパックの底に風が通る。
北に行くか南に行くか迷っている人に、やれ北がいい、南がいいと言うのは簡単だ。
けれども僕は、北と南で揺れるその有り様を見て、風向きを読むのが好きなのだ。だから、こうしている。