へばりと、適応性と、慎重さ。
死神は、備えているときには来ないものだ。
by ハサウェイの回想の中のアムロ
……生憎と、僕は何度踏み抜いてもわからない、おめでたい頭をしているようだ。
ぼやけた頭
端的に言えば、へばっている。
心臓・思考・視界が「止まれ」とがなり続け、仕事にならない。
半月ほど、良い出会いが繰り返された。
(出会いの話はちまちま書き記しているので、いずれ出したい。)
これはもちろん運がいいことだ。
そして、良い出会いにはインスピレーションと行動が伴うものだ。
もうちょっとコンスタントに来てくれたっていいもんだけど、大体一気に来る。
だからそれが一山超えると、一気に疲れが吹き出す。
集中力がおしまいになり、日がな一日眠気に襲われる。
「自己肯定感」の実在を信じてたときにはメンタルが乱高下してたものだ。「あんなに頑張れると思って、頑張ると言っていたのに、なんてザマだ」なんて。
今となっては、そんなメンタルには来ていない。いや、来ているのか?わからないが、とりあえず自分を責めても何も解決しないことはわかっている。
これは運命志向と適応性が働いた結果なのだ。
強み……と言うには開き直りすぎた特性たち
「今この瞬間踏み込むべきこと」が見える、ことがある。そして一度見えると暫く見え続ける。幻覚かもしれないが、まあ「頑張りすぎた」以外の理由で後悔したことはない。この思考のすっ飛ばし具合は運命志向の賜物だ。
そして、「今ここで動くべき」と見えたならば爆発的に行動できる。適応性の「バースト」ともいうべき馬鹿力は僕がよく知っている。
そしてバーストしたエネルギーは別の資質が消費する。
こだわるならば最上志向・適応性が。
協調するならば戦略性・アレンジが。
傾聴するならば個別化・共感性・成長促進・ポジティブが。
エネルギーをイナゴのように食い荒らし、タスクをなぎ倒す。
その後に残るのは荒れ果てた大地だ。疲れ果てた身体だ。
そんなところに種を蒔いたところで芽吹くはずもない。ゲームオーバーだ。
何度自らの身体を荒野にしたか、枚挙にいとまがない。
何度も後悔し、苦しみ、それでもまたやっている。
会社の仕事の進捗は、常に乱れ続ける。巻き進行と押し進行が行ったり来たりする。
「ゲームオーバー」と付き合う
布団の上で微睡みながら、いつも「チョコボの不思議なダンジョン」を思い出す。
(「チョコボの不思議なダンジョン」がわからない人は、風雷のシレンとか、トルネコの大冒険とかを思い浮かべて欲しい。ローグライクゲームと呼ばれるものたちの話だ。)
怠惰にしていると急かされ、安堵しているとふとした瞬間にピンチが来る。そしてあっという間にゲームオーバーが来る。
あのゲーム性に病みつきになった反面、「こつこつとモンスターを狩り続ける」ドラクエのような行為がなかなか出来なくなってしまった。
安定して働いている人たちはすごい。
「安定している」というそれだけで、敬意しかない。
昔はメンタルのせいだとか、根性が足りないだとか、生産性が悪いだとか、色々考えた。
でも心身が元気かどうかに関係なく、イナゴはやってくる。元気であるほど、イナゴが強くなる。それだけだった。荒野に戻るのは、変わらなかった。
だからもう諦めてしまった。僕は農家ではなく、旅人・風来人の類なのだと。こつこつやるのは不可能で、乱高下させながら行くしかないのだと。
だからせめて、農家の仕事に感謝し、たまの大舞台で大立ち回りをするしかない。
大立ち回りが派手になればなるほど、手に残るものは大きくなるし、手を伸ばせる範囲も広がる。それは嬉しいから、そのために普段から鍛えておく。
そして、自分を責めれば責めるほど回復は遠のくのだから、一通り終わったら他人の正しさをほっぽりだして休むほかない。
……つくづく社会人らしくない。
七転八起
けれども、わかってればやりようがある。
やりようがなければそれは死を意味しており、まあそれならそれでしょうがないのだけど、まだ僕は生きている。
幸いにして、「手を抜いたらやばい日」は見えるようになった。慎重さのおかげというか、長年のへばり経験というか。
だから「僕が休んでいいって言ってんだから、休んでいいし、休むべきだ」という、はた迷惑な確信を持って休めるようにはなった。
メンタルなんて、治りそうな気がしてしまう希望に満ち溢れたものじゃない。
これは僕というゲームの設計だから、最早どうにもならない。
そう受け入れたからこそ、メンタルに響かせることなく立ち直れるようになった。被害をより少なく抑えられるようになった。
少なくとも僕にとって、人生はローグライクだ。
元気になるために、出来ることは全部やる。
そして次はもうちょっと上手くやる。
それだけを誓い、布団の中に潜り込んだ。