『無条件』の力学 Unpacking Within #1-2
はじめに
人生には、荷物整理がつきものだ。
人生は旅に例えられる。仕事をし、本を読み、人に出会い、話を聞き、新しいことを知る。大事にしたいことが増える。
バックパックに背負うものがどんどんと膨れ上がる。
そのうちにそのバックパックの重さに窮して、開けることすら躊躇われるときがくる。
けれど、勇気をもってバックパックを開けるとこからしか物事は動かない。
中身を取り出して、畳みなおす。小さくする。
要らないものがあったら捨てる。そうしているうちに、運が良くもっと便利なもの、小さなものに交換できる。
そうしたら、またゆとりができる。そこにはまた新しいワクワクするものを詰められる。
Unpacking Within.
今日もまた、背負った荷物に込められた物語を語り始める。
今回の旅人は若い方だった。柔和な表情の裏に、どこか張り詰めた雰囲気があった。仮にAさんと呼ぼう。
まあ、旧知の仲ではあるけれど。カレーを食べてお腹が膨れたところで、少し丁寧に荷物を広げてみよう。
一次創作にあこがれて
「わたしアイデンティティが欲しいんですよ」
「……アイデンティティ?」
愛、やりがい、そしてアイデンティティ。「金さえあればどうにかなる」という価値観が崩れ始めた今、さまざまな方法で追求されるものたち。(それはそれとして金はないとしんどいけれど。)
そんなお悩みの解決の第一歩として、ストレングスファインダーは便利だ。
10資質の組み合わせは6000万通りにも及ぶので、診断結果はおおむねそのまま「個性」と呼んで差支えない。あくまで「確率論的には」という但し書きがつくが、少なくとも信じて磨けばアイデンティティになる。
けれど、ここで「じゃああなたの資質をもとにあなたの個性の話をしますね!まず1位の<<回復志向>>ですが……」なんて話をしても、横須賀くんだりまで来た甲斐ってものがない。
だから、聞き返した。
「アイデンティティがあると、何がうれしいんですか?」
「一次創作がしたいんです。」
「一次創作……絵を描くとか、作曲するとかそういう?」
「そうです。」
「アマチュアで一次創作している人達とよく会うんですけど、みんなすごいなあ、って」
「出来栄えが?」
「それももちろんすごいんですけど、それ以上に熱量が。」
「その熱量は、アイデンティティから生まれると」
「そう。」
ふむ。「創作をする熱量」にあこがれている。よくある話だ。アートの世界で目立つのは、目覚ましい才能を発揮したり、世情を見事に切り取ったものばかりだからだ。
ここには大いにバイアスがかかっているのだけど、その話は彼女の話が一息ついてからにしよう。
そばにいる「創作者」たち
やりたいんですよね、という話に関しては、多くの場合「やりゃいいじゃん」という回答が返ってくる。そして「でも〜がなくて」と続くのが鉄板だ。彼女の「でも」はなんだろう。
「もうなんかやってるんでしたっけ」
「電子ピアノと、絵も描いたり文章も書いたり、あと写真も撮ってます」
「めっちゃやってるじゃないですか」
「でも全然徹底できないんですよ、ちょっとやるとまた別のことが気になっちゃって」
「やりたいのはそうじゃない……ってこと?」
「そう、一本決めてやりたいんですよ」
そう言って、彼女は身近の創作者たちの話をしてくれた。
写真を日に200枚撮る人。
関係性オタクで、関係性を絵に起こすことにこだわり続けている人。
オリジナルの世界観で短編作品を作り続けている人。
ライフワークとして長編作品を書き続けている人。
僕がpixivでしか見たことないような熱量を、彼女は間近で感じた。
「わたしもああやって打ち込める表現があったら、楽になれるのかな、って。」
「楽に?」
「そう、普段言えないこととかも、うまく吐き出せると言うか。『やらないと息が苦しい』ってほどじゃないんですけど。」
口下手な人間が歌詞に思いを込めるであるとか、大事なものを熱量込めて描くとか、まあ、確かにある。普通……って言うとかなり語弊があるが、一般社会に用意されたレールの上で満足している限り、表現はすでにされている事が多いため、しなくていい。
だからこそ、その創作者達には、その表現が必要だった。そして彼女自身にも『創作をするだけの表現したいこと』がきっとあるはずである、と。
「ヨルシカのn-bunaさんのラジオ、聞いたことあります?」
「ないな……」
「お悩み相談みたいなコーナーあるんですけど、全部最終的に『曲、書こう!』にまとまるんですよね」
「ストロングスタイルだ」
「そう、でもわたしにはそういうのがなくて。」
「『曲を書くこと』に対する信仰心……的な?」
「信仰心……とはちょっと違うかもしれないけど、仕事と関係ない情熱は欲しいです。」
情熱。自我。そして『楽になる』ための表現の話。何かが混在している。だからこの整理だとうまくいかない。
けれど抽象論をしても彼女の視点には立てない。だからもう一歩、具体論で鍵探しをする。
幸いにも、彼女は「いろいろやっている」のだ。一個ずつ聞いてみようじゃないか。
「一次創作」と「二次創作」の間
僕は矢継ぎ早に質問を重ねた。
「いろいろと活動してますけど、全部『一次創作ではない』と思ってる、という理解でよかったでしたっけ?」
「そうですねー」
「例えば、この前だと写真でいろいろやってましたよね?あれは『一次創作』ではないんですか?」
「わたしは風景を切り取ってるだけなので……」
「1枚だとそうかもしれないけど、例えば複数枚の写真集的にしたら?」
「確かにスナップ写真なら『一次創作』に少し近いかもしれないけど……うーん」
「絵はどうですか?風景画は『一次創作』ですか?」
「それも風景を切り取っているだけなので、『一次創作』ではないかなー……」
「ピアノは?楽譜通り弾いてるだけだから『一次創作』ではない?」
「そうですねー……」
見ようによっては殺人現場でアリバイ確認をする警部のようでもある。「お前はどうなんだ、情熱ないなんて言ってるけど本当は情熱あるんじゃないか?」と軽くさらっていく感じ。言葉が詰まるポイントには意味がある(これも尋問テクっぽいが……)。
しかし取りつく島もない。まるで「自分なんて大したことない」と方々に言い訳しているようだ。強いて言うなら写真の「スナップは創作に近い」というのが気になる。
ちょうどよく、前の人が話で触れていた美術史の本があった。
料理も一息ついて、話を聞いていたやすきさんが、本をめくりつつ切り出した。
「例えばゴッホのひまわり、ありますけど、これって創作ですかね」
「創作です」
はらりはらりと本がめくれる。
「ほんじゃあほんじゃあ、この絵、印象派っていう人がコンサートに行ったときに思ったことを絵に起こしたらしいんですけど。これって創作ですか?」
「創作だと思います。」
ほのかに苛立ちがよぎる。
「赤いりんご。あるやないですか。あるとしましょう。これを見ながら『青りんご』を描いたら、これは創作ですかね?」
「創作ではないと思います。」
緊張感が走る。
「これと『ひまわり』って何が違うんでしょうかね」
灼くような沈黙が少しあった。
思考を受け入れるための沈黙ではなく、主張を通すための沈黙。思考回路の差は、空気の差に表れる。
絞りだすように口を開く。
「…………他人の作品に『創作だ』とか『創作じゃない』とか、言いたくないです。」
出てきたのは、無条件のリスペクトだった。
これだ、と思った。
『無条件』の条件
「無条件に〇〇する」という言い方をしたとき、実はその裏に前提がある。
例えば、僕は人の行動・発言に見え隠れする、無意識の構造を見るのが好きだ。これはどんな善人でも悪人でも変わらない。『無条件』に近いだろう(もちろん一つ一つの発言・行為に対する賛同・反対はあるけれど、それはそれ)。
けれどそれは、「人が自分の視点で行動している・発言している」ことが前提だ。組織の政治力学で言わされているような姿を見ると、なんというか、こう、すごく悲しい。言わされている苦しさに共感しているのではない。政治的事情はすぐ観えるが、めちゃくちゃ頑張らないと「政治的立ち位置」の裏側が見えないことが悲しいのだ。
そして、その立場を崩さないことに価値があるのだから、あえて懐に潜り込むようなこともしたくはない。だからすっといなくなりたい。そういう理由で僕は大きな組織が苦手だ。
なんでシステム開発やっとるんだろうな?
ともかく。僕の『人間の無意識が無条件に好き』には『政治的立ち位置で発言していないこと』という前提が入ってくる。
これは言ってしまえば選り好みだ。純度を100%にするために、不純物を取り除いているようなものだ。
だいたい趣味がある人や興味がある人は、大なり小なり、無自覚か自覚的かに依らずこういうえり好みをしている。
では、不純物混じりのものを『無条件に受け入れ』ようとするとどうなるのか。
一つは、クオリティに対する興味を手放すことである。『みんな違って、みんなどうでもいい』。そりゃそうだ。どうでもよくないから選り好みしてるんだから。行動・発言と好き嫌いの関連性を切って、とにかくやるべきことを実行し続けるスタンスだ。
ストレングスファインダー的には<<個別化>>の資質が得意とする領域である。この資質が上位の人は「多様性」「ユニークさ」を尊び、長所を見つけ、受け入れていくことが多い。多様であること自体がいいので、そこのクオリティに対する興味がないこともある。
では、クオリティに対する興味を保ったまま『無条件』をするにはどうなるか。それは『どんなものからでもよい所を拾う』ということになる。すべてのものが『よいもの』となるように評価軸の方を動かし、純度100%を実現してしまうのだ。
軸をどこに動かすか。『これはよい、これは悪い』と言っては成立しない。だから基準を自分の方に寄せていく。「私には表現できないものを表現している」「私には使えない技法を活用している」「私には見えない視点で描いている」……
そう、これらの認知は『私はできない』という一点で像を結ぶのだ。
特に彼女は<<回復志向>>を持っていた。出来ることより、今出来てないことに。得意なことより苦手なことに関心を持つ。
だからこそ、『この人はすごい』ではなく『自分はできていない』に気がとられる。一つ出来るようになっても、また別の出来ないことが気にかかる。
その瞬間、hatisAOの空間が彼女の『不足感』に吸い込まれていくように感じた。
決壊
「……なるほどね。Aさんの場合<<回復志向>>と<<慎重さ>>あたりが作用して、『ちゃんとしたい』という気持ちが強くなっちゃうかもしれないなと思います」
「それは、ありますね」
「きっと人の素晴らしい表現を見て、今のAさんにできてないものを見つけると、やりたくなっちゃうんだ。そして一息ついたころにまた別の『できてないもの』が見つかって、そっちに意識が向く。」
「あー……」
理解が深まり、緩やかにまとまっていく。実はここまでで1時間半以上経過していたのだが、そろそろ整理がつく。そう思って少し息を整えたところで、やすきさんが声を張り上げた。
「もうAさん、やりましょうよ!」
「やるって……?」
「フリーハンドで丸描いたって、創作でしょう?」
「……?」
「だって他の人がコンサート観て思ったことを絵にしたら創作だって言ったんですから、Aさんがフリーハンドで丸描いたって創作でしょう!」
まるで鍋の中で煮詰まった空気が爆ぜたようにやすきさんが席を立つ。そして面食らってる皆(僕を含む)を放っておきながら、テーブルにあった花瓶と、どこからか拾ってきた草を並べて、こう言い放った。
「はい!これをいい感じに並べて写真撮ってください!」
「いい感じに……?」
「はい!もうフィーリングですわ!直感!」
「は、はい……」
Aさんは気圧されながら並べ始めた。
やすきさんは、僕が感じてた最後のハードルをさらっと飛び越えていく。確かに最後は実践しかないとは思うのだけど、追い詰め感なく圧を出せるのはやすきさんの特性だろう。
彼女は逡巡する。花瓶と、生けてあった花と、謎の草とで、配置をころころと変えながらカメラを向けて、首をかしげる。きっとフレームに収める度に納得いかない所が見つかるのだろう。
僕はそれをとても美しいと思った。
タイムラプス
<<収集心>>、<<着想>>、<<慎重さ>>、<<回復志向>>。そもそも彼女は、インプットもアイデアも強い資質に、マイナスをゼロにする資質が揃っている。技法や自我や情熱など、常に新しいマイナスを検知するのはもう、しょうがないのだ。さらに<<内省>>もあるので、それを自分ひとりで考え続けられる。次から次へと出てくる思考を自分の頭で打ち返し続けられるし、打ち返し続けてしまう。
だから作品としてまとめるのにはきっと抵抗があるのだろう。
そのあり方自体が作品にできないかと思った。
動き回りながら手直ししている彼女を邪魔しないように、製作中の様子を写真に収めた。何枚も。
これも言うなればスナップ写真である。現実を撮り手の主観で切り取った、創作と非創作のあいだ。
完成した作品は、言ってしまえば『断面』だ。そこにはある時点での思考の結実だけが見える。しかし、彼女の本質はその手前の形にならない思考と試行の全部だ。
だから、全部収めておきたいと思った。
一つ一つは中途半端なのかもしれないけれど、きっとそれが重なり合うから味が出るのだ。
……というのは半分本音だが、もう半分は僕自身の慰めだ。僕自身がシステム開発も何もかも、中途半端だと思ってるからこそ、そうであって欲しかったのだ。けれども、とにかく心が動いた。
写真だって絵だって、その元となった風景だって、全部見る側の捉えようだ。そして現代美術の文脈に乗るのであれば、見る側が勝手に心を動かす限り、それはもう芸術である。