~自分が幸せになるのに、他人の許しは必要ない~
先日、摂食障害「かもしれない」自分に触れてから、多方向からどんどん湧いてくる様々な感情。
それによって少しずつ過去の出来事を思い出したり、また、一見そことは関係の無いような現実の出来事から引き出される感情を踏まえても、今はとにかく色んな意味で自分の容量が追いつかず、暫くはここに向き合う必要があるようです。
題して「私だけの、オリジナルストーリー」。
前回に続き、食べるのが怖い「私」という存在をこれから先、時間をかけて受け入れていくお話です。
そもそも、食べることによっての「太るのが怖い」現時点の私にとって「太る」ということは、
「人として生きられる最低基準を満たせない」
「人に愛される努力をしない」
「怠慢」
…などと、ただでさえ「人を不快にさせる」自分が更に自ら「醜く」なろうとする行為。
それでなくても私は「誰にも許して貰えない」、そもそも生きてることが罪で、その存在自体がダメなのに。
なので単純に、これ以上人に嫌な思いをさせて、嫌われるのが怖かった自分を思い出していました。
しかしその一方では、他人にどう思われてもいい、自分を制限しなくてもいい人が羨ましくてしょうが無い。
もう何度となく、何もしなくても(ありのままで)許される人のことを恨めしいと思っては、そうじゃない自分のことを疎ましく思ってきたことか。
しかしそうやって、少しでも人に好まれる自分にコントロールしようとすればするほど、目の前の相手には嫌われることが多かった過去の出来事も、今更ながら腑に落ちてきました。
そして実際のところ、そんな自分のことを誰よりも不愉快だったのは私自身でしたし、へつら笑いをして相手に媚びる自分と同時に、本当は「まだ食べたかった」自分を抑え、「もう食べたくないフリ」をしてその場を取り繕った自分の何ともみっともなく惨めな表情を思い出しては、今はそれが無性に悲しくて仕方ありません。
こうして私は、人に許されるために、許して欲しくて、本当は自分がやりたくない事を散々やって来ました。
人に許されない自分はこの世に生きてたらダメな存在だって、心の奥底ではずっとそう思って生きて来ました。
しかし実際は、「自分の存在を消される(嫌われる、無かったことにさせられる)」のが嫌で、大切な人達に自分の本当の思いを何も伝えて来なかったのは私でしたし、何より、醜くてみっともない自分が余りにもいたたまれず、それらを心底「消したかった」のも、私自身でした…
と、そんな今までの自分を振り替えりながら、ふと気付きました。
「誰にも許して貰えないの、当然だ…
だって、自分にしか出来ない」
という事に―
そもそも初めから、「醜い私」「嫌われ者の私」「生きてちゃダメな私」が存在すること自体、他人には一切関係のない事で、そんな私が必死に彼らに好まれる努力をしたところで、誰にもそんなこと求められてなかったわけで。
自分を許すも許さないも初めから私にしか出来なかったことで、「誰にも許して貰えない」って、今まで散々、自分で答え言ってたわ、って。
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今日も午前と午後の2回ウォーキングしたのにも関わらず、昨日より600gも増えてしまった自分の体重に衝撃を受け、ここまで書いてきた気付きどころの騒ぎでは無いのが、正直、今の私の現状です。
自分との向き合いを、あっという間に終わらせようとしてきた自分を思い出し、自分を受け入れていく旅なんてほんと一生もんだわってことを改めて痛感しつつ、それでも尚ウォーキング中に気付いた事があります。
ああ、「許す」って
どんな自分の存在も、(あるって)認めていいってことか、と。
また、次回に続きます。
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