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1991年 広島東洋カープ(優勝)

あけましておめでとうございます。今年もすまあかしのnoteをよろしくお願いいたします。

話は変わりますが2024年はとにかく打低の年でした。チームに2桁HRを打った選手がいないチームであったり、いたとしても1人2人という状態で、両リーグ合わせて20HR以上を打った選手がわずか10人と打撃に苦しむチーム・選手が多い年でした。

また話題にもなったのが広島の大失速劇。9月初めは首位に立っていた広島ですが9月は5勝20敗と歴史的大失速をかましてしまい、なんとAクラスどころかBクラスになる4位に転落。この大失速いろいろ理由はありますが広島の打撃陣がかなり悲惨だったことがありまして、チームで2桁HRを打った選手が坂倉将吾(12HR)のみ、チームHR数は52HRとMLBで54HRを放った大谷翔平1人よりも少ないと話題になりました。

ただその広島、過去にも打低に苦しむ年がありました。1991年です。
この年はチーム内HR王が11HR、得点数はワースト2と低迷。
こうなるとチームも低迷…かと思いきやこの年は優勝をしています。
1991年の広島はなぜ打撃陣で苦しんでいたのに優勝できたのでしょうか。


広島黄金時代

1975年に初優勝を果たした広島はその後黄金時代を迎えることになります。
1983年に2位になって以降は8年連続Aクラスとなっており、そのうち84年には日本一(これが現時点でも広島最後の日本一でもある)、86年にも優勝していました。
1989年には球団のレジェンド山本浩二が監督に就任。以降は2年連続2位と優勝には一歩及ばないシーズンが続いていました。

90年オフの選手移籍でいうと84年の日本一メンバーでもある長嶋清幸を中日に放出して音重鎮、山田和利を獲得。また西武を退団したT.バークレオを獲得しています。

当時の広島の戦力を一言でいうなら84年日本一メンバーと若手有望株の融合体というようなチームでした。小早川毅彦や山崎隆造といったメンバーは依然健在で、若手で言うと当時のトッププロスペクトともいえる前田智徳、2年目ながら鮮烈な活躍を残した野村謙二郎がいるなど良い選手は揃っていました。

野手陣

前から言っているようにHR数が狭い広島市民球場にしては少なく、2桁HRを打った選手が江藤智(11HR)と野村謙二郎(10HR)しかいません。
野村はHR数は10HRですが.324と高打率をマークしており、170安打で最多安打、31盗塁と盗塁王に輝いていて、OPSも.800台に乗っています。WARも6.0とかなり貢献度では大きい存在でした。

後に90年代広島を代表する和製大砲となる高卒3年目の江藤は.215とかなり低い打率ですが、その割には出塁率が.345と高く、OPSも.700台に乗せています。当時はない言葉だったと思いますが当時の広島のトッププロスペクトと言えるでしょう。

チーム全体で見るとR.アレン、T.バークレオと外国人が軒並み不調に陥ってしまい、スタメンから外れることも多かったようで主に後半戦では代打で勝負所で使われていた西田真二を4番で起用するなど苦境を凌いでいました。
HR数ではかなり劣っていたこの年の広島ですが、その代わりというべきか打率と出塁率の高さが目立ちます。

前田智徳プロ初HR(1991.4.6)

投手陣

リーグでは下位レベルの野手陣を支えたのがこの投手陣です。
主に活躍したのが佐々岡真司、川口和久の左右のダブルエース。
前年ドラ1として先発救援守護神として起用され大車輪の活躍を果たした佐々岡はこの年先発に専念して240イニングを投げるチームの柱となります。また防御率2.44で最優秀防御率、17勝で最多勝と投手2冠、奪三振も213とまさに最強のエースでした。
その佐々岡を差し置いて最多奪三振のタイトルを獲得したのが川口で230奪三振とイニング以上の三振を取りまくりました。
84年優勝メンバーも依然躍動しており、34歳の北別府学は141.1回と規定投球回に乗ると11勝4敗で最高勝率のタイトルを獲得。
36歳の大野豊は守護神に回り37登板で防御率が1.17、26Sを挙げると最優秀救援のタイトルを獲得しました。
個人的なイメージでは年取っていくとK%とかは低下しがちな感じがするのですが、36歳でK%30%超えは本当に凄い。大野は実際あと5,6年ほど継続して活躍するのも含めて結構長生きなプレーヤーだとは思います。

1991年の広島は投手力では抜きんでた存在でチーム防御率は3.23、先発救援共に防御率はリーグ1位でした。

佐々岡真司

シーズン概要

シーズン開幕後まもなくは阪神を除いた5球団で首位の入れ替わりが激しく、団子状態でした。
そこから5月になると広島が頭1つ抜けることになります、きっかけは5日からの9連勝。ここで広島優勢か…そう思われていましたが、以降は五分五分寄り、なんならちょっと負けが先行している状態で団子状態に戻ってしまいました。
6月5日にはインフィールドフライの処理ミスでサヨナラ負けを喫するなど6月は借金2の負け越しで終わりました。

↑ちなみにこのプレー、広島には緒方孝市が大洋には石井琢朗がいたんですよね。この時の経験が25年後に活きるわけです。(詳しくは広島 巨人 インフィールドフライ とかで検索してください。同様のプレーが出てきます。)

6月後半ともなるとだんだん団子状態も解消されてきて中日・ヤクルトが首位争い、広島・巨人が中位で争っていました。
6月末には中日に6ゲーム差をつけられ3位に広島はそのまま3位で前半戦を終了しました。

津田のために

広島は長らくストッパーを津田恒美が務めていました。
打者の手首を粉砕するストレートを投げることでも知られた津田でしたが4月14日の巨人戦で原辰徳に同点タイムリーを打たれるなど乱調で降板しました。
実は津田は前年から頭痛をはじめとする身体の不調を訴えるようになります。この頭痛が長く続いた津田は広島の病院で検査を受けるわけですが、その結果手術では摘出できない位置に悪性の脳腫瘍があることが分かりました。闘病生活に入った津田でしたが5月20日に準支配下登録となった後に退団届を球団に提出。球団は周囲の動揺を避けるために悪性脳腫瘍ではなく「水頭症のために引退」と実際の病名を伏せて発表しました。

津田の引退を受け奮い立ったのは広島の選手たち。
選手会長だった山崎隆造は「津田のために優勝しよう。津田を優勝旅行に連れて行ってやろう」と涙ながらに訴えました。

津田恒美(左)と長冨浩志(右)
津田の選手評というと阪神最強助っ人として知られるR.バースの
「津田はクレイジーだった」という言葉でわかるだろう。

後半戦が始まると8月上旬にはヤクルトを抜き2位に浮上すると、じわじわと首位中日に接近します。
そして9月10日から天王山となる中日3連戦が始まります。
10日は北別府が大豊泰昭に2発被弾するものの野村のタイムリーで追いつくと正田のタイムリーで逆転。初戦を取りました。
11日は序盤から山崎のタイムリー、正田の3ラン、アレンのHRで5点を取ると、佐々岡が終盤打たれながらも完投でカード勝ち越しを決めます。
12日、中日とのゲーム差が1となった広島は打線が爆発。同点に追いつかれた3回に満塁のチャンスで山崎がHRを放ち中日を突き放すと、5回には一挙8安打の猛攻で8点を挙げるビックイニング。20安打17得点で完勝した広島はついに首位に躍り出ました。

21日の巨人戦では逆転打を放ち勝利するとここで広島にM14が点灯。
そして10月13日の広島市民球場での阪神戦(ダブルヘッダー第2試合)で初回に4番西田がタイムリーで先制。この貴重な1点を佐々岡が7回、8回からは代わった大野がしっかり抑え優勝決定。
歓声に沸く広島市民球場では公開ビールかけなんてことも行われたみたいで、選手たちが観客に向かってビールを飛ばすシーンもあり、就任3年目にして悲願の優勝を達成した山本監督は「選手を褒めてやってください!」と叫びました。

日本シリーズではパ・リーグ2連覇を達成していた西武とのマッチアップになりました。
戦前では西武有利と言われており、実際第1戦では広島先発の佐々岡3回途中でKO。結局3-11と大敗します。
しかし第2戦では西武先発・郭源治を捉え5回に前田、西田のタイムリーで勝負あり。1勝1敗に戻します。
ホーム広島市民球場に戻った第3戦は西武先発・渡辺久信に手も足も出ず0-1で敗戦も第4戦では佐々岡がリベンジ登板で西武打線を8回3失点に抑えると広島打線も西武先発・渡辺智男を2回KO。
第5戦はアレンの2ラン、達川のタイムリーで3点を取り、先発の川口が8回、大野が9回を0に抑え勝利、3勝2敗と広島が日本一に王手をかけます。

しかし西武ライオンズ球場に戻った第6戦では広島は奇襲に出ます。
広島の先発はこの年初先発となる川端順。しかし4回からは石貫宏臣、5回からは金石昭人と細かな継投を見せます。しかしその金石がピンチを招き、途中から川口がマウンドに上がったのですが、代打の鈴木康友にタイムリーを打たれ均衡を破られるとわずか3球で川口から紀藤真琴にスイッチ。
しかしその紀藤が秋山幸二に3ランを打たれ勝負あり。結局3勝3敗と並ばれてしまいました。

雨天順延で1日後ろ倒しで行われた第7戦は西武の渡辺久信が制球が定まらず3者連続四球で押し出しで先制します。
一方で4回までは安定した投球を続けていた佐々岡でしたが5回に石毛宏典が出塁すると二盗。その後鈴木健のタイムリーで同点に追いつかれると、また佐々岡に代えて川口が登板。しかし川口がまた平野にタイムリーを浴び逆転を許し、田辺徳雄にもタイムリーを浴び2点のリードを許してしまいます。
6回からは北別府が登板するも7回に2失点。代わった川端も秋山に2ランを打たれこの回計4失点と1-7と大量リードを許した広島は反撃できず敗戦。
3勝4敗で日本一の座には届きませんでした。

ただ西武にとってはこの年の日本シリーズは印象に残っていたようで、石毛は若手の野村や前田の溌剌としたプレーを見て、「本来これらのプレーは自分達の持ち味であったはずなのにそのプレーをカープの選手にされてしまっている。今一度我々も原点にもどって戦うべき」と最終戦前のミーティングで発言したり、西武・森祇晶監督も「佐々岡と川口を第5戦・第6戦まで温存していたなら、結果は反対になっていたかもしれない」と述べています。

広島vs西武というと2018年の日本シリーズでの再戦あるか!?と思ったが
まさかソフトバンクにその夢を阻まれるとは…

まとめ

いかがでしたでしょうか。
1991年の広島は突き抜けた打撃こそなかったもののそれを上回る傑出度を見せた投手陣の影響もあり優勝を果たしました。
しかし投手陣は佐々岡以外高齢化が進んでおり、かといって強みだった投手陣にそこまで良い若手が多くいたわけでもなかった広島は投手王国が崩れ始めます。
一方で打線が強化され「ビッグレッドマシン」と呼ばれる強力打線を築くも投手陣の不調が目立ち優勝からは遠ざかることになります。
結局次に広島が優勝するのは25年後の2016年。結局広島市民球場で行われた日本シリーズはこの年が最後でした。

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