”自分の体をより良く”という気持ちの後ろに、希望や好奇心が溢れていますように
さてさて、今日から心に移りゆくよしなしごとを徒然なるままに書いてみます。
人の体に携わる仕事についてから十数年。経験も色々積んできて、人の"体"や"動き"、そこを通した"生活"や"人生"というものに関わってきました。
で、その中で感じていることのひとつに、今日のタイトル、
”自分の体をより良く”という気持ちの後ろに、希望や好奇心が溢れていますように、というのがある。感じていること、というよりは願いに近いかも。
なんのこっちゃと思う人もいるかもしれない。
その反対として思い浮かぶのは、自分の体をより良くしたいと思った時に、なんとなしに「良くするためには、つらいことを我慢して乗り越えてこそ」「自分のダメなところは克服しないとだよね」みたいな気配を感じる時がある。自分のバツなところを消去したいような、今の自分を否定するような。
その気配は、子どもに「こうあるべき」と迫る親の姿とか、あるいは「あれはダメ、これは良い」というジャッジのフィルターとも似ていて。
そういう気配を感じるたびに、ちょっとだけ、でも確かに悲しくなる私がいる。
キラキラとした好奇心を持った子どもが「そんなことより、これをしなさい!それはダメ!」と価値観を押しつける親を前に、萎えてしまうのと同じように、
体も、「これが正しい方向です」と別の軸を勝手に決めつけられて、「そもそもこうなったらもっと心地いいかなぁ」という希望や好奇心や持っている本来の力がしゅん…としおれてしまうような、そんな気がしてしまう。
「自分の体をより良くしたい」と思うきっかけは、どうしても自分の体の痛みだったり、不調だったりすることが多くて、スタートはもちろん「ここから変わりたい」でOKなんだけど、でも自分の体をより良くするという行為は、今の自分のダメなところを打ち消すような作業ではなく、内側に元々備わっているすこやかなあり方を浮き上がらせるような作業だと思っている。
”自分の体”と”子ども”の存在は、似ている部分があると思っていて、それらは未熟で足りないものではなくて、無垢で伸びしろを沢山持っている。すでに十分な存在で、満ちれば勝手に育っていく。
産まれてすぐ、寝返りも出来なかった赤ちゃんが、寝返りを覚え、ハイハイから座ったり立ったり歩いたりする様は目を見張る変化があるのだけど、子どもは誰に教わるでもなく、つらいトレーニングを積むわけでもなく、吸収するが如くどんどん発達して、運動を獲得していく。彼らを前進させている力は「もっと面白い世界を味わってみたい」という希望であり、好奇心。その道にはたくさんの楽しさで溢れている。
そんな風に、自分の体に対しても、もっと心地よく面白い世界を経験できるとしたら、どんなことができるかな?あれをやってみたら面白いかも?そんな希望や好奇心が溢れているといいな。
いきなりそんなこと言われても、希望とか好奇心なんて持てないよって人も、まずは厳しさよりも優しさや楽しさをもって自分の体に接することが出来るようになれたら、そこを通した”生活”や”人生”もまた変わってくるんじゃないかな、なんて割と本気で思っている。
・・・最初に書く記事がこれでいいのかな?私の言葉は伝わるかな?なんて不安も実はあったりするのだけど、これでいいのだー。まずは一歩進みましょ。
”自分の体をより良く”という気持ちの後ろに、希望や好奇心が溢れていますように。
そう思ってみれば、そういう方向に少しだけ世界が広がる気がして、ちょいと言葉にしてみました。