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展示されていた本屋さんのこと

岡本太郎現代芸術賞なるものがあることを、先日の岡本太郎美術館で初めて知った。

そこにはインパクトのある作品がたくさん並んでいて、ひとつひとつ順番に見ていたときだった。

突然、それは現れた。

本屋さん。

本屋さんが展示されている。 

変な日本語だが、見たままの感想である。

受賞した他の作品も、形にとらわれないものが多かった。入り口で出迎えてくれた大きなバナナのオブジェ、見たことのないようなカラフルで前衛的な刺繍、数えきれないほどたくさん並んだお面。

だから、本屋さんがあってもおかしくない。

いや、ちょっとおかしい。

ひとまず、作品に向かい合う。


低い台の上に平置きにされた本と棚に収まっている本。
壁に貼られたポスター。

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その全ては白黒で、なんだか妙な熱気を感じる。

近づくと、表紙は印刷ではなくひとつひとつ描いてあることがわかる。

横には「本を見るときはそっと扱ってね」の文字。

触ってもいいアートというのは珍しい。
私は建築の壁や柱に触るのが好きだ。材質を知りたいなんて、そんな専門的なことではない。ただ、単にその感触を確かめてみたい。だから、立体的な作品を見ているときもこれはどんな質感なのだろうかとよく思う。

もちろん、禁止されているものには触らないけれど、あえて触れないでくださいと書いていないものにはどんどん触る私だ。

ドキドキしながら、平置きされた本の中から一冊を選んで持ち上げた。

表面はざらざらとしていて、描いているというのが指先から伝わってくる。本のひとつひとつが作品だ。
中をそっと開く。ページがあるわけではなく見開きでよく分からない一言とイラストが描かれている。

持ち上げた下にも、更に同じ表紙の本がある。中身は違う。

婦人画報でもサライでもない、けど婦人画報でサライだ!

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そう、すべて文字はでたらめだったのだ。

めちゃくちゃな言葉に、元ネタとなった雑誌のそれらしい絵が描かれている。

「家にいても、アマゾンで読みたい本が買える時代だ。小さな本屋さんの中を歩いて、店主の描いたポップを読んで、まるで興味のない分野の本を偶然手に取る、なんて体験は年々減ってきている。そもそも町の小さな本屋さんはすべてつぶれてしまった。今や、田舎では書店と言えば田んぼの真ん中にどーんとそびえ立つイオンの中だけだ。

そもそも、本が本の形として存在していないことが当たり前になってきている。 電子書籍なら、タブレットの中に文字だけがある。薄い板一枚で何冊もの本が読めるなんて、まるでドラえもんの秘密道具だ。

でもそれは現実で、一般的で、もう誰も不思議だと感じない。

このままだと、本の装丁はどうなるだろうか。装丁という言葉そのものが、いずれ忘れ去られていくんだろうか。表紙の紙質や印刷によって出来た凹凸、誰かが寄せた本の帯。いつか未来の万博で、かつて本はこういう形状でしたと展示されるようになるかもしれない。本って、本屋さんってもはや過去のものなのだろうか。」

そんなことが頭の中を一気に駆け巡った。

しかし、目の前の漫画本の表紙には「あああ いいい ううう」などしか書いていない。

墨で描かれた絵と、意味を成さない文字が、謎のパワーと勢いをもっている。絵でも立体の作品でもなく、本屋さんというかたちで。

こんな斬新な作品が世の中にあるのだ!なんだかものすごいものを見てしまったぞ、とわくわくして後半の展示はあまり頭に入ってこなかった。

この『書店レジ前の平台』を作ったのは、伊藤千史さん。パンフレットの作家の言葉を読んで更に私は驚いた。ここに書かれている言葉をまさに、そっくりそのまま、作品から感じ取ったのだ。

70年代80年代の昭和のノスタルジックな本屋さんが、全身で語りかけてくるなんて体験はこの作品を通してしかできないだろう。

あまりにも感動して、帰りにミュージアムショップで、伊藤さんの本を買った。内容は、この作品とは全く違ったが、墨で描かれた猫や人間が生き生きと本のなかで動いている。さらり、と描いているようで構図が面白くて、よくこれを墨一色で描くなぁと感心した。

いつかまたどこかで、伊藤さんの作品を見てみたい。久しぶりにとても良い体験だった。

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くらいあさ
くらいのパトロンになりたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いします。その際には気合いで一日に二回更新します。