見出し画像

土門拳の写真を見た話

美術館や写真家個人の記念館などで、写真の展示を見たことがあるだろうか。

私自身は美術館も博物館も建築も大好きなのだが、写真の展示を見たというのは思い返しても二回しかなかった。

それもちょっと特殊で、肖像写真だけが飾られている展示と、あとは婚活で見た岩合さんの猫展。

余談だが、10年前ジャニオタ時代に、関ジャニ∞のフェスのようなイベントに行ったのだが、一直線に作られた会場にメンバーの成長の写真が時系列に展示されており(ほやほやの赤ちゃんの写真から大きくなるまで)、オタクが大歓喜していた。
この写真を見たあとに、実際の大人になったメンバーを見るのでなんだかもう親の気持ちである。

ということで、今回は人生三度目の写真展である。

それがこちら。

病院だった建物を改装しているのでレトロな外観


土門拳のことは何となく知っていたが、とにかく写真の展示が見てみたいという気持ちが強くて、電車でぼちぼち向かった。

駅からこの美術館までは商店街のアーケードの中を15分弱歩くのだが、それが昨日の呟きである。

この商店街をあまりにも人が歩いていなかったため、館内も閑散としているのかと思いきや、年配の方が何人も見に来ていた。途中のソファでなにやら思い出話をしておりいい雰囲気だった。

さて展示についてである。

土門拳は、戦時中のジャーナリズム的な写真から、戦後は子供達や庶民の姿、文豪や俳優の肖像、仏像や寺、など幅広いジャンルの作品を残した写真家である。

今回、その写真のほとんどがモノクロだったのだが、異様な生々しさを感じた。

なんというか、モノクロであるがゆえに、いつの時代の写真なのかわからなくなるような感じがするのだ。

戦前、浅草で浴衣を来て盆栽を見る女性の後ろ姿も、戦時中の千人針も、戦後の子供達も。

色がないと思いの外、建物や服の古さが分かりにくい。
にしし、とカメラに向かって悪い笑顔を見せる子供。カメラを気にせず、号泣する子供。
ちょっと、てれくさそうにこちらを見る子供。
どれもさっき撮られたと言ってもおかしくはないような奇妙な感じがするのだ。
子供の表情って今も昔もこんなに変わらないのだなとしみじみと思った。

しかしそんななか、一枚だけ、強烈に印象に残った写真があった。
シューシャイン(靴磨き)の子供の写真だ。

お客さんの靴を磨きながらも「おれは見世物ではない」という芯の強い目で睨むようにレンズを見ている。

この写真はきっとこの瞬間の、この子だから撮れたのだろうな。
(いや、もちろんどの写真をとっても同じことが言えるのだが)

その少年のまなざしから、戦後を生きる子供の強さをひしひしと感じることができた。


また、写真を大きなパネルで見ることも新鮮だった。

土門拳は、晩年病気を患い、手ではなく三脚を使って仏像や寺の写真を中心に撮っている。
寺で仏像を目にすることはあるが、大半は一歩引いた場所からなので、劣化した部分までを見ることはほとんどなかった。

クローズアップされた、色は剥げて、お世辞にもきれいとはいえない状態の仏像のお顔。

そんな写真たちを見ていると、私は今まで、たくさん京都や奈良で仏像を見てきたけれど、本当に見てきたのだろうか。見るってなんだろうか。

見る、ということそのものを揺さぶられるような、そんな気持ち。

いい写真をたくさん見たなぁと会場を出て図録を買おうとするとなんと完売。

私の後ろにいた、ご夫婦も残念そうにポストカードを買っていた。

私もあきらめて、モノクロの仏像シリーズのポストカードを購入。

それにしても、図録ほしかったなぁ…

次回は、時止まりまくりの商店街でのくらいさんぽです!

くらいのパトロンになりたいという奇特な方がいらっしゃいましたら、よろしくお願いします。その際には気合いで一日に二回更新します。