おぼろ月 静かに差し込む 母の影
タイトルの俳句は、高校生の時にお~いお茶の俳句コンテストに応募して、佳作だったものです。
何年か後にお茶のラベルになっていたそうですが、自分で買ったお茶では見たことがありませんでした。地域によるのかも?
応募するときに俳句の説明を書くのですが、そこには「おぼろ月は春の季語。4月に親元を離れた新社会人が忙しく仕事をする中で、ふと夜に空を見上げるとおぼろ月が目に入り、故郷の母も同じ月を見ているのだろうかと思いを馳せた。」みたいなことを書きましたが、嘘っぱちです。でたらめです。
本当は、自分のお母さんのことを思い浮かべて書きました。
高次脳機能障害のある母は、コミュニケーションが難しく、簡単な会話しか成り立ちません。一応、聞いたことに答えを返してくるのですが、オウム返しだったり、最近テレビか何かで聞いたことを答えてみたり、そうかと思えばどこから思いついたのかわからないような突飛なことを言い出したり。
母の本心がどこにあるのか、まったくわからないのです。
私にとって、母の心は遠く、さらに高次脳機能障害による雲がかかっていてはっきり見えない、「おぼろ月」のようなものでした。
でも、本当にたまにではありますが、雲が晴れて母の本当の姿が現れるような瞬間があります。
例えば、先日、大根をおろしていたら指まですりおろしそうになったので思わず、「痛っ」と声を上げてしまいました。すると、そばにいた母が「大丈夫?絆創膏貼る?」と声をかけてくれました。そこまでの怪我をしたわけではありませんが、今のはきっと、嘘偽り無い母としての子供を思う優しさだったのかもしれないと思いました。そういう時に、おぼろ月の雲が少し晴れて、月の光が差し込んできたような気持ちになります。(なぜ、母の”影”という表現を使ったのかちょっと思い出せないのですが・・・。おそらく、雲が晴れたとしてもまだ母の姿ははっきりとわかるものじゃなくて”影”のようだ、ということか、高校生の頃は母の存在を”光”と捉えていなかったので”影”と言っているのかだとは思います。)
いつか、雲一つ無い空に浮かぶ大きな満月のような母の姿を見てみたいです。”障がいは個性”かもしれませんし、”障がいを無くしたい”と思うのは望ましいことではないのかもしれませんが、私は”高次脳機能障害”の無い、本当の母を知りたいです。
母は本当はどんな人なのか。母はどんなことが好きなのか。私にどんな話をするのか。どんな風に私の話を聞いてくれるのか。
少しでも、本当の母の気持ちを知りたい。
今日もまた、おぼろ月を見上げています。
雲が晴れる、その一瞬を見逃さないように