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ロング・グッドバイ(認知症)

いつから夏になった?と、疑問に思うこともなくいつの間にか自分は夏の中にいて、新社会人になって5カ月目、今の会社に移って3カ月目とは思えないほど、この生活が当たり前の座に居座ってる。

前回の投稿が4カ月前。その間に投稿の敷居は段々と上がっていって、いや、僕の足元が少しずつ地盤沈下していて、この前までそこら中に落ちていた記事の冒頭のアイデアが、おもいっきりジャンプをしてやっと、ちらっと端っこが見えるくらいには、遠ざかっているように感じる。

地盤沈下といえば、友人から聞いた話によると、諏訪にある長野県庁舎は地盤沈下によって、5階建てが4階建てになり、元々1階だったフロアが地下1階になったらしい。

とても面白い内容だけど、なんか身の回りのいろんなことが予断を許さないんだなという余談。と言いたいがために思ってもない未来への不安も拾って添えておいた。
あなたがポイ捨てしたんでしょう。
欲しくなったらいつでも取りに来てください。
要らないようなら僕が食べておきますんで。
捨てた不安のことなんか忘れちゃってください。

誰かが落としたものは、必ず誰かが拾う。

そうやって世の中は回っています。

あなたが捨てたものは誰かが拾ってくれるし、あなたが拾ったものは誰かが捨てたもの。
あなたがそれを拾わなくても、いつか誰かがそれを拾います。
だから、気にしないで。
あなたは自分の手にあるものだけ見つめてればいい。

できることなら、この疲労も、捨てていきたいね。

『今拾物語』

あ、上の数行の文拾ったくせにすぐ捨てたの誰ですか。
もう落とし主は受け取る気ありませんよ。

一旦休憩挟んでください。リセットしてほしい。

今の生活を始めてから、約5カ月。
祖父母が二人で住んでいた家で、認知症の祖母と二人暮らし。
基本在宅勤務のおかげで、あまり不自由のないように一緒に暮らせていると思っています。

認知症とはいえ、よく動いてよく喋るから何ら大したことはありません。
聞いたことや見たもの、食べたものをすぐに忘れちゃうくらいで、そんなこと、聞かれる度に僕が答えれば全く問題ない。

食べたものを片付けないとか、ごみの分別をしないとか、言わないと歯を磨かないだとか、色んな生活習慣や文化がすれ違っているのも、自分が見ているときは、してほしいようにお願いすればいい。

それでも問題なのは、たまーに、強く言い返してしまったり、少し嫌な言い方をしてしまったりする僕の弱さだ。

認知症だから、「ちゃんと○○をやって!」と叱るってことに意味はなくて、内容は覚えていなくても感情は残ることで、行動も治らなければ、悲しいという感情が募ってしまい、外界とのつながりを弱めてしまいかねない。

それをわかっているのに、仕事中に何度も同じことを聞かれたり、忙しい中急いで料理をしているときにご飯はまだかと何度も言われたりすると、口に出さずとも、火を使わず僕の感情だけで味噌汁を沸かしてしまうこともある。

そういうのはすべて受け入れなければいけないと分かっていても、自分はそんなに強くないんだなと実感する。

僕らの家に、よく彼女が来てくれて、祖母とも仲良く話をしてくれる。
彼女がいると、祖母はとてもうれしそうで、僕にはもったいないくらい優しい彼女で、ただただ来てくれることに感謝をしなければいけない。
のに、自分がやっていることを彼女がやってくれないことに不満を感じたことがあった。

そもそもが自分の家で、彼女は来てくれるだけでマイナスなことは何一つないのに、自分は頑張っているのにと不満を感じてしまった。

おかしい。

自分が我儘を正当化しようとしていることに嫌気が差した。

「期待」とは、する側が勝手にしているだけで、本来はそこに生まれるはずのないものがほとんどのように思う。
なのに、期待を生んでしまうと、それを知らない相手が応えてくれないことに負の感情を感じてしまう。

この幻想は世の中のあらゆるところに存在していて、夫婦の家事育児問題とか、あらゆる組織間の役割分担で起こる問題すべてに存在していると思う。

自分がやっているから、とか、周りがやっているからなんて理屈は人に何かをやらせる権利には繋がっていなくて、どんなときも、そもそも人は一人なんだということを認識しなくてはいけない。

一人だなんて寂しいとかそういうことではなく、最低限自分がいて、その上に周りの人がいてくれるんだと、基準をまず自分ひとりの力でできるところに持っていなければいけないと思う。

自分の制御可能な範囲とその外側の境を明確に持つことが、自分の感情のコントロールに繋がるのではないか。

ある意味過激な考えかもしれないが、不安や怒りって、人にぶつけていい感情ではなくて、本来は内側のベクトルにしか乗せられない感情なんだと思う。自分発の外側のベクトルには感謝しか乗らない。

本来、感情と方向の関係は一方通行であるべきだと、思います。
とはいえ急に逆走したりすることもあるんですけど。ホーム間違えたり、乗り過ごしちゃったりとか。
「都会の乗り換えはむずすぎる!」
が米倉涼子の声で脳内再生されますね。
求めて良い共感と良くない共感がある。

つまり、プル系には背筋と二頭筋、プッシュ系には胸筋と三頭筋が使われるってことです。これに相反していたら、それはブレーキがかかっている。
逆のベクトルが生まれちゃっているんです。

なんてことはどうでもよくなくて、とても大事なんで念頭にでも刺激入れといてください。

ほんで、一番僕が伝えたかったのは、最近読んだ
『ボケ日和』
(作:カラテカ矢部, 原案:長谷川嘉哉先生【認知症の専門医】)
という本が、最高で泣いた。という話です。

長くなるのでこの話はまた。

ロング・グッドバイ

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