私を執着心から解放した右手の話
2回目のカウンセリング。今回このアタッチメントのためのカウンセリングを「1ヶ月間の短期集中」でお願いしている。なので約週2回くらいのペースでゆかりさん(仮)とのセッションをすることになっている。
今日はなにについて話そうか。私は、仕事をしていたときに辛かったことについて話そうとした。でもなんだか言葉がうまく続かない。いいづらさを感じる。
ゆかりさんは、私が言葉に頼ろうとするとすぐに気がついて「私に説明しようとしなくていいですよ。私はカメさんのサポートでここにいますけれど、私ではなくて自分に語りかけるような感じで。自分の身体で今感じていることでいいんです。なにを感じているのか、身体に聞いてみてください」と促してくれる。ゆかりさんは、いつだって「身体優先」だなと思う。理屈をこえたところに私をいざなってくれる感じだ。私はそれに身を委ねる。
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私は、仕事を辞めたこと、仕事に執着していたこと、そして、それを無理やり引き剥がしてゴミ箱に捨てたことを話をした。実際に捨てたのではなくて、以下のような「イメージ」の話だ。
「引き剥がす」というと過激なイメージがあるかもしれない。でも私にはその過激さが必要だった。
仕事を辞めようと決めた時、この仕事への執着心をなんとかしなくてはならないと思った。そうしないと絶対に引きずる。それはなんか違う!と思ったのだ。この職場で今まで重ねてきたすべての経験は、私にとって大切で愛おしいものだった。だから絶対に愛憎に変えたくなかった。
そのために執着心は「捨てないと」いけない。自然と剥がれるのなんか待っていたら、その間に本質の方の自分が腐ってしまう。今すぐに、たとえ傷になったとしても、今すぐ取り去らなくては。そんな感覚だった。
でも、それでも私は躊躇して動けず、醜いままだった。執着心を持っていたほうが、この場所に固執していたほうが安全なのではないかという思いが消えなかった。私ひとりでは、自分から居心地のいい(と思い込んでいる)場所を手放すなんて、とてもそんな恐ろしいことはできなかった。
私が執着を剥がそうとしているのと同じタイミングで、noteで大切なもの以外、すべて捨てている人のテキストを読んでいた。これは彼からのメッセージだと確信した。俺も捨ててるよ、お前も捨てられるよ、やってみろよ、と言われているような気がした。
私は彼に、大切なことについての行動の仕方をたくさん教えてもらった。それはとても具体的でシンプルなことだ。いつかそのことについても書きたい。
私は醜いけれど、ひとりではなかった。左の肩に貼り付いて固くなっている執着心の塊を、右手で無理やり引き剥がした。アイデンティティやポジションへの固執、自分だけが特別だと思い込む優越感、私と一体化していた大きな執着心の塊は、メリメリ音を立てて剥がれた。私はそれを燃えるゴミの袋に入れて口を縛った。
塊がなくなった私は、自分が思っている以上に小さかった。私はもっと大きいと思っていたのに、結局こんなちっぽけだったんだ。自分じゃないものを自分だと思いこんでいたんだ。なんだか虚しい気持ちだった。
ここまで話すと、ゆかりさんは「そのお話、とても印象的です。よければ右手と左肩に、その時の話を聞いてみたいと思います。いかがですか?」と提案してくれた。
「それで、できれば右手の方からがいいと思います」。これには少し驚いた。傷になっている左肩はなんとなくその存在を感じていたけど、そういえば右手の方はどうだっただろうか。剥がさなくてはと必死でまったくそこに思いがいっていなかった。
「左肩には、右手のあとに聞くから、ちょっと待っていてくれる?と確認してください」と言って左肩への配慮も忘れず(左肩にOKをもらい)、私は右手に聞いてみることにした。
左肩についた執着心を引き剥がす動作をしながら、右手の感覚に意識を傾ける。
ゆかりさんには「内側から浮かんでくるイメージを味わってください」と言われたのだけれど、どうにも違和感があった。さきほども書いた通り、私の右手は、私の内側の力で動かしているのではなかった。
「うーーん。なんか内側って感じじゃないんです。私ひとりではきっと剥がせなかったと思うんです。もう少し外の力、他者の力というか…」
「ああ、そうですか…では、その外の力、他者の力を感じながら、右手の感覚を味わってください」
最初は、助けになってくれた人の存在を思い浮かべていたが、そのあと浮かんできたのは、どこまでも開けた大地で広がる太陽の光だった。朝日かもしれないし、夕日かもしれない。ちょうど空と大地の間からふわーっと光を放って、その力が私の右手に宿っているような感じだ。とても偉大で美しい光だった。私の右手は、私の力によってではなく、美しい力によって動かされていた。
「ああ、とても美しいです」
また大いに泣きながら、私はこのようなことをゆかりさんに伝えた。
「きれいですね、すばらしい。伝わっています」
「…この感覚を味わってみて、いまカメさんにはどんな感じが訪れていますか?」
「守られている、というか。ひとりじゃないというか…」
あまりに泣きすぎて恥ずかしくて、ゆかりさんの顔を見ることができないのだけど、いつも優しくでも、冷静に、こちらを見てくれている。こういう安心感の醸成のしかたってあるんだなと思う。これはカウンセラーさんなら誰でもできるのではなくて、おそらくゆかりさんのもともと持っている性格とか素質が、長年の経験や学びによって洗練されて現れていて、私はその恩恵を受けているのだと思う。ゆかりさんはプロだ。
「今日は時間になってしまったので、左肩には申し訳ないですね。次回に聞くからね、とお伝えしてみてください」
「…はい。だいじょうぶと言っています」
「そうですか。それはよかった。では次の時間を決めて、今日は終わりにしましょう」
*
アタッチメントの旅は、おもしろい。セッションが終わったあとに「あの体験はなんだったんだ…」と放心するこの感じもまた、味わい深い。
ふと、以前に土門蘭さんが陰陽のお話をしていたことを思い出した。
土門さんがどう考えを展開されたか、とても冷静でわかりやすく、かつダイナミックでもあるので、ぜひ続きを聞いていただきたい。
私も、陽だけを引き受けるのではなく、自分の陰も引き受けたいと思った。
陰を引き受けることは、陽の存在を再確認することでもある。影があるということは、影を作り出している光があるということだから。同時に陽も引き受ける。「私なんか…」とかいわずに、陽の恩恵を拝受する。すると、引き受けてきた陰が深みを出してくれる。陰の部分が土台になってくれるのだと思う。陰が陽を支える土台だとすると、私が感じていたあの空虚な感じはまさに陰に向き合わなかったからなのかもしれない。
自分のアタッチメントへの取り組みは、まぎれもなく「陰」に向き合うことだと思う。自分の「陰=影、醜さ、悪、闇」を見つめれば見つめるほど、「陽=光」が見えてくる。
だから、それは決して苦しいばかりではない。醜さや小ささ、悪の部分に真実が眠っているのかもしれない、と思う。あのときの私の右手は、陽のエネルギー、自分以外の外のエネルギーに溢れていたと思う。内側にある陰を見つめなければ体験できなかったことだ。陰の存在は、陽の存在を証明していることでもあるのだ。