ゆっくり歩くカメ

ゆっくり歩くカメ

マガジン

  • アタッチメント(愛着)の旅

    長年感じていた私のアタッチメントについて取り組んだ記録。イメージが多めなのでわかりにくいと思いますが、そのまま残しておきます。

最近の記事

身体は、プラスではなくマイナスを求めているかも

「過緊張」という言葉をツイッターで知った。 肩こりや腰の痛みの原因は、精神的に負荷がかかる状態がずーっと続いたことで身体が慢性的に緊張状態になり、結果固くなってしまうため、ということらしい。 これには驚いた。パソコン仕事、座り仕事だけが原因だと思いこんでいたからだ。もし過緊張が原因ならば、身体のためにやれることは緊張状態を取ってやること、リラックスすることではないか。そんなこと今まで思っていなかった。「もっと運動しないと」と、プラスにやることを考えたりしていた。 しっかり

    • 「ほしくない、いらない」という選択

      映画を見ていると心が揺さぶらてしまうポイントがあると思う。 なぜそこで涙が出てしまうのかわからない。 ずーっとあとになって「ああ、そういうことだったのか」と自分の心の深いところに触れていたのだなと思えるときがある。 * カオナシが金をたくさん出して千尋に与えようとするが、千尋は受け取らず、「ほしくない。いらない」と断って、その場を立ち去る。 「千と千尋の神隠し」のこのシーンになぜか惹かれていた。 千尋は、カオナシからの贈り物を受け取らなかった。さらに別のシーンでは「私

      • 内藤礼とスケボーとリスペクト

        リスペクトを感じると、私は震える、という話。 * 初めて行った国立博物館は、日曜日ということもあってものすごい人だった。観たかったのは、内藤礼「生まれておいで 生きておいで」。 内藤礼さんの展示は、以前に水戸芸術館でも一度観たことがあったのだけど、正直言って「よくわからなかった」。なんなの?これは。という感じだった。混んでいて落ち着かなかったというのもあるけれど、なにより、私が頭で理解しようとしていたのだと思う。 今、なにもない私が、内藤さんの作品を観たら感じることが

        • 尊厳を守る白い馬

          ゆかりさん(仮名)とのセッション5回目。 前回の重りの話をおさらいしてみた。 すると、自分に対する嫌悪感を感じる出来事が浮かんできた。 何かを始めるときに、自らペースを崩してしまう。誰かに言われたわけでもないのに「早くやらなくちゃ」「すぐやらなくちゃ」と動いてしまう。 「すぐやる」ことは一見悪いことではない。しかし問題は、私の心のなかで起きていることだ。誰かに言われたわけではないのだが「誰かに言われている」、このコントロールされている感じなのだ。私が考える隙がないのだ

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        • アタッチメント(愛着)の旅
          7本

        記事

          風と遊ぶ赤い風船

          カウンセリング4回目。書き留めることが難しくなってなかなか筆が進まない。 この日は映画ルックバックをみた直後だった。 この映画を作ろうとした人たちの、原作と登場人物たちへのリスペクトが絶え間なく伝わってくる。映画を見ているあいだ、ほとんど泣きっぱなしだった。ふたりの仕草とか、ものの言い方とか、画角とか、表現全てが訴えかけてくる。 もともと原作は読んでいたので、その素晴らしさはわかっているつもりだったけれど、映画はつくる人たちの思いがさらに上乗せされていた。それは、まさにル

          風と遊ぶ赤い風船

          美しさを受け入れるところから始まる。

          自分の醜さを認めなければ、とずっと思っていた。自分の醜さを受け入れなさい。ダメな自分もあるがままに見なさい。 よくこう言われるけど、あるがままというのは、ダメな自分を認めることなのか?よくわからなくなってしまったのだ。 自分のことを「ダメな自分」と言ってるとき、他者の目線を意識していることに気づいた。ダメということにしておかないと、自信過剰とか無責任だと思われるから「ダメな自分」ということにしている。先に自分で言って牽制しているだけなのでは。 もしかして、自分の狭い視野の

          美しさを受け入れるところから始まる。

          いのちと出会う。

          まだ通勤していたときのことだ。 道路の前をカメがゆっくり横切っていく姿に出くわした。15年間毎日通っていた道だけど、初めてのことだった。 2車線のアスファルトの道路をゆっくりゆっくり。向こう側まで歩いていく。車はそれをみんなよけていく。私もブレーキを踏んで、カメをかわして仕事に向かった。自分の置かれていた状況もあいまって、このシーンになにか象徴的な感覚を覚えていた。 数日後、また同じ道を通った。すると道の傍らに血まみれのカメの甲羅が横たわっていた。向こう側へ渡ろうとして、

          いのちと出会う。

          不安に支配されないためにも、めんどくさがらず準備と段取り。

          そういえば、私は不安になりやすいなぁと思う。 どなぜ私はこんなに不安になってるのかなとふと思った。 今旅行にいく計画をしている。行くと決めて申し込んだはいいけれど、突然に不安に襲われている…。我ながら自分で自分に呆れてしまう。漠然とした不安で、とても大きくて自分では太刀打ちできないように思えてしまう。こうして書いていても極端だなと思う。ヘタをすると「もう旅行になんかいくのやめたほうがいいんじゃない」とか思い始める。これも辛い。ここに行こう!と前向きに決めたのは自分なのに「私

          不安に支配されないためにも、めんどくさがらず準備と段取り。

          役割からおりる

          3回目のカウンセリング。前回は自分の左肩にくっついてしまった執着心をいかしにして剥がしたか、そしてその剥がした右手の様子についてフォーカスしていった。 今回は、残された左肩のほうだ。左肩の感覚に集中して、何を言っているかに耳をすませる。これがなかなか難しい。最初は聞こえてこない。時間をかけてゆっくり集中していく。 浮かんでくる瞬間は突然なのでどうだったか忘れてしまうのだけど、フッと立ち上がってきたのは、丸くてぷよぷよとした乳白色のかたまりだった。それらがぷよんぷよんとゆっ

          あなたも、わたしも「美しい人」。

          有給を使ってお世話になった方のところへ、ご挨拶まわりをしている。昨日も長年かわいがってくださったご夫婦のところへ行ってきた。 お会いしてそうそう「カメちゃ〜〜〜ん」と手を振ってくれる奥さまと 「おお〜、よく来てくれたね〜」と言って迎えてくださるご主人。 ご主人は席に着くなり「どうした」と言って、私の目をじーっと見た。 話す前から、なぜか涙があふれてしまった。心配されてしまうかな…と心配になったけど、止めることができなかった。この方はそらさないんだ。ずっとこうして生きてこら

          あなたも、わたしも「美しい人」。

          なにが幸せかは、自分にしかわからない

          友人2人とランチに行ってきた。3人とも同い年。それぞれに年を重ねたからこそできる話しがある。 自分を大切にするとはどういうことか、についての話になった。 職場で抱えすぎないこと。残業しないこと。できないことはできないと提示すること。こう書くと不真面目に見えるかもしれないがそうではない。約束の時間はお給料のぶんだけきちんと働く。 頼りにされることで開かれていく世界も重要だし、捧げることで返ってくる喜びがあることも事実だ。なんでもかんでも「できません」というのも本位ではない。

          なにが幸せかは、自分にしかわからない

          いらないものは、いらない。

          昨日は、自分のふとした行動で一気にブラックホールに引きずり込まれてしまって、やばかった。引きずり込まれるというよりも、自らそちらにすーーーっと行ってしまう感じで、そこに愕然とした。 そっちじゃないとわかっているのに身体が自動で動いてしまう感じだった。ものすごく怖かった。自分が憎らしくなった。なんでわざわざ自分を傷つけにいくんだよ。そう思うとますます悲しくなった。涙がとまらなくなってしまった。自分の不安定さにがっかりする。 自分をこんなにも不安定にしているものは一体なんだろ

          いらないものは、いらない。

          真面目ではなく、真剣といいたい

          「真面目ですね」って言われると、なぜか私はちょっと馬鹿にされている感じがしてしまう。相手がどう思っているかが重要なのではなくて、自分のなかで持っている言葉のイメージがあるのなかと思ったので、今日は「真面目」について考えてみたい。 うーん、悪くないイメージだ。でも、実際に使われるときってもう少しネガティブなイメージが混ざっている気がする。例えば「融通が効かない」「硬い」「完璧主義」「視野が狭い」とかね。そういうふうなイメージをはらんでいる気がする。なにか悲壮感も漂うよね。確か

          真面目ではなく、真剣といいたい

          正しさで勝負しない。美しいほうを選ぶ。

          起きてしまったことや悲しいこと、苦しいことは、なかったことにはできない。誰も悪くない。だから、自分のしたことや相手のしたことを、ほかの誰かにジャッジされたくないと思った。 ただ、起きたことには意味がある。その意味、メッセージを今、どう受け取るか、未来へどうつなげるかだけだと感じている。 ジャッジされる、またはジャッジすると、正しいか、正しくないかの評価軸になってしまう。 その理屈でいけば、自分の正しさを主張したいのではない。 正しいどころかむしろ、間違いまくる。正しくない

          正しさで勝負しない。美しいほうを選ぶ。

          外には風が吹いている

          今日は「神さま」について書いた。この「神さま」っていうのは、言葉の意味する範囲が広すぎるし、人によって持っているイメージも異なるから、すごく難しいなと思いつつ、一度残しておきたいと思ったのだった。 私の場合「神さま」を、別の言葉に置き換えると「外の世界」だなと思う。もう少し具体的にしてみたいので、今感じている「外の世界」について書いてみようと思う。 最初に思い浮かぶのは「人」だ。丁寧な文字で書かれたメッセージを受け取ったり、語られるエピソードのなかに私へのエールを感じたり

          外には風が吹いている

          神さまに祈ること。私の場合

          注|ここに出てくる神さまは、あくまで私の神さまの話です。 「神さま、私を守ってください」 今までこんなふうに願うことはなかった。 私は特定の宗教を進行しているわけではない。そもそも神頼みっていうのは、なんだか自分のことを棚にあげているような、落ち着かない感じがあって、あまり好きじゃなかった。 神社にいっても「私を見守っていてください。みんなが幸せでありますように」などとカッコつけたことを思っていた。 一方で、苦しい時、不安にかられて、今思えば完全にパニックを起こしていた

          神さまに祈ること。私の場合