正しさで勝負しない。美しいほうを選ぶ。

起きてしまったことや悲しいこと、苦しいことは、なかったことにはできない。誰も悪くない。だから、自分のしたことや相手のしたことを、ほかの誰かにジャッジされたくないと思った。
ただ、起きたことには意味がある。その意味、メッセージを今、どう受け取るか、未来へどうつなげるかだけだと感じている。

ジャッジされる、またはジャッジすると、正しいか、正しくないかの評価軸になってしまう。

その理屈でいけば、自分の正しさを主張したいのではない。
正しいどころかむしろ、間違いまくる。正しくない。
情動に駆られて攻撃的になる。居場所を失いたくなくて執着する。

自分の中には醜い部分、罪深い部分が確かにある。それが、私だ。
その行動の背景にどんな理由があったかなんて、どうでもいい。
言い訳なんかしたら逆に苦しくなる。その醜さこそが自分。

これらを他者に認めてもらおうとしない。
自分の醜さを誰かに「そんなことないよ。あなたは悪くない」と
言ってもらうことを求めない。ジャッジを仰がない。ジャッジしない。

そして、その醜さには支配されない。光を見る。美しい方を選ぶ。

たぶん、ここまでセットだ。
「醜い方を選ばない。私はきっと、美しい方を選ぶことができる」と自分を信じることができなければ、そもそも自分の醜さや罪深さを認めるなんてできないのかもなと思う。

正しさよりも美しさ。美しさとは、まっすぐであること、かなと思う。
純粋であること。素直であること。自分の求めていることに正直であること。これは毎日、瞬間瞬間を大切にしていくこと、外の世界に触れることで育まれるのかなと思ってる。

自分で気づかなきゃって思ってたら、こわばって聞こえてこない気がする。開いていることで、世界が優しく教えてくれるのかなと想像する。

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