
映画「サムライ」1967年フランス
「サムライ」(原題:Le Samouraï)は、1967年にジャン=ピエール・メルヴィル監督が手掛けたフレンチ・フィルムノワールの傑作です。
この映画は、孤高の殺し屋ジェフ・コステロ(アラン・ドロン)が主人公。
彼の冷徹なプロフェッショナリズムと孤独な生き様を、スタイリッシュな映像美で描いています。
ジェフのストイックに自己規律を徹底した生き様。
そして、不要なものを限界まで排除した静謐な部屋。
まるで修行僧や侍が死を準備するために過ごす空間のようです。
メルヴィル監督が演出した寡黙な殺し屋の造形は、この映画の後、多くの映画監督や観客に影響を与え続けて行くことになります。
ジェフはパリに住む殺し屋で、完璧な計画とアリバイ工作を駆使して粛々と仕事を遂行します。
彼のアリバイ工作に手を貸すのは、この時アラン・ドロンの妻だったナタリー・ドロン。
彼は依頼通りに、ナイトクラブの経営者を射殺します。
しかし、クラブの黒人女性ピアニストに現場から出てきたところを目撃されてしまいます。
ジェフは警察に連行されるも、目撃者たちの証言が曖昧だったために釈放。
ピアニストは、なぜか彼を現場で見たとは言いません。
しかし、警察はジェフをあきらめたわけではありませんでした。
ジェフは警察から執拗に追い続けられる一方で、雇い主からも命を狙われることになります。
最終的にジェフは、自らの運命を受け入れながらも、最後は・・・
その結末は悲劇的でありながらも、ある意味では武士道を体現しています。
本作は、台詞が極めて少ない映画です。
その代わりに視覚表現や音楽が効果的に使われ、物語は淡々と進行します。
カラー映画ではありますが、モノクロームに近い色彩設計静で画面がコントロールされていて、必要最低限のジャズ音楽が、映画全体にクールな雰囲気を与えています。
冷静沈着で感情をほとんど表に出さないキャラクターを、アラン・ドロンは見事に体現しています。
彼のミステリアスなキャラクターが、この役にはドンピシャリでした。
実はメルヴィルは、主演俳優アラン・ドロンを念頭に置いて、本作の脚本を執筆しています。
いわゆる「あて書き」です。
ドロンの人気は、アメリカよりも日本において絶大でした。
そのためか、日本贔屓で知られるドロンの自宅には、実際に侍の槍や刀剣が飾られており、それが本作のタイトルにも影響したとも言われています。
メルヴィルは、アメリカのフィルムノワールやギャング映画から大きな影響を受けました。
彼は1930年代から1940年代のハリウッドギャング映画やフィルムノワールをこよなく愛しており、それらの象徴的な要素を本作に積極的に取り入れています。
例えば、主人公ジェフのトレンチコートとフェドラ帽は、アメリカギャング映画でよく見られる典型的な衣装をフランス風に流用。
そして、ハンフリー・ボガードが体現した「行動が語る」スタイルを徹底的に採用し、それを際立たせるために、台詞を最小限に抑えたわけです。
この手法により、観客はセリフよりも、キャラクターの動作や視覚的な手がかりに神経を集中するようになり、これが物語全体に絶妙な緊張感をもたらしています。
ジャン=ピエール・メルヴィルも、アラン・ドロン同様、東洋哲学、とりわけ侍精神や武士道から大きなインスピレーションを得ていました。
彼の殺し屋としての行動は多分に儀式的であり、一切の無駄を省いたミニマリズムな行動様式は、禅や東洋思想を彷彿とさせ、装飾を排除し、無駄を排した生き方は、武士道における内面的探求に通じるものがあります。
これは武士道の核心である「名誉」「忠誠」「自己犠牲」といった価値観を反映しており、彼が単なる雇われ殺し屋以上の存在として描かれているわけです。
そもそも、フランスという国は、ありがたいことに、日本文化に対して、昔から多大なリスペクトを持っていてくれました。
黒澤明や小津安二郎のディープなファンが、フランス人に多いのは有名な話です。
遡れば、19世紀のフランスで一大ムーヴメントになったジャポニスムは、単なる異国趣味を超え、芸術における「視覚革命」として機能しました。
モネが《ラ・ジャポネーズ》で描いた団扇や、ゴッホが《花咲く梅の木》で模した浮世絵の平面性は、遠近法の破壊などという単純なものではなく「時間の可視化」を追求した点で革命的でした。
フランスの画家たちは、あの浮世絵の大胆にデフォルメされた構図に、度肝を抜かれたわけです。
フランス庭園の幾何学性と枯山水の抽象性も、自然の「再構築」という点では共通します。
ヴェルサイユのオランジェリーと桂離宮が共に「人工的自然の劇場」であることは実に示唆的です。
まったく異質のものと思われる、茶道の「型」とバレエの「ポジション」も、形式の極致化から生まれる自由を追求しているという点では通じるものがあります。
ルノワールが《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》で描いた瞬間の煌めきは、千利休の「一期一会」そのものです。
1867年パリ万博で徳川昭武が披露した「江戸のテクノロジー」(からくり人形や自在置物)は、「機械化時代のアナクロニズム」として衝撃を与えました。
これは単なる技術驚異ではなく、「機能美と遊戯性の融合」というフランス的感性(アール・デコの源流)に訴えるものでした。
現代のフランスにおけるロボット工学と伝統工芸の融合志向は事実上この延長線上にあります。
フランス人の日本文化に対するリスペクトの本質は、「他者を通じた自己の再発見」という相互鏡像関係にあります。
フランス人が日本の茶碗に「不完全の美」を見出すとき、実は自らのゴシック建築が孕む「計算された非対称性」を再認識しているのです。
両文化の対話は、オリエンタリズムを超え、「文明批評の方法論」そのものを更新し続けています。
ある意味では、日本文化を、日本人以上に深い次元で共感してくれているのがフランス人かもしれません。
しかし、同時に自国の文化に対するプライドの高さが世界一なのもフランス人。
メルヴィル監督が本作で描こうとしたサムライ・スピリッツは、基本メイド・イン・フランスです。
映画の冒頭で語られるナレーションはこうでした。
「侍の孤独は、ジャングルの虎の孤独に次ぐものだ」
これは、日本の武士道に関する書物からの引用ではありません。あくまでも、メルヴィル監督の創作。
ジェフが、扉の横の鏡を見て、帽子のつばを触ってから出ていくというお決まりのシーンも、監督のクセをそのまま流用したもの。
フランス人のフィルターを通して描かれる日本文化の消化具合は、しっかりと見極めるべきでしょう。
『サムライ』はフランス・ヌーヴェルヴァーグの流れとは明らかに異なる文脈で登場し、あえて「古典主義的」なアプローチとしても注目されました。
その結果、この作品は伝統と革新を融合させた作品として評価されることになったわけです。
フランス語辞書には「サムライ(samouraï)」という単語の簡潔な定義や歴史的背景がきちんと記載されています。
侍が日本の封建時代における武士階級であり、主君に仕える戦士であったことなどがきちんと説明されているわけです。
では、日本人はフランスの文化をどう評価していたのか。
そういえば日本にも、フランス人を主人公にした大ヒット漫画「ベルサイユの薔薇」がありましたね。
あの漫画で描かれたマリー・アントワネットは、フランス人にはどう映っていたのでしょうか。
日本の漫画文化も、やはりフランス人にとっては、アンドレないかも。