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映画「忠臣蔵 桜花の巻・菊花の巻」1959年東映

大石内蔵助というと、誰の顔が浮かぶか。
これは、年齢によって、浮かぶ顔はそれぞれかもしれません。
いやもしかすると、今の若い人たちにの中には、ピンとこないという人すらいるかもしれません。
僕の場合は、かなりはっきりしていますね。

それは、三船敏郎です。

この天下の名優は、実は映画で、大石内蔵助を演じたことはありません。
彼が、大石を演じたのはテレビドラマでした。
1971年にNETテレビ(現代のテレ朝)が放映した「大忠臣蔵」です。
ですからこの時の僕は、12歳の小学校六年生。
今やドラマは、ワンクール3ヶ月が当たり前ですが、このドラマは1年間まるまる全52回という長丁場のドラマでした。
1月から放送が始まって、ちょうどその年の12月14日に、討ち入りの回が放送されたのを覚えています。

放送は毎週火曜日の9時。たいていは父親と一緒に見ていました。
見終わると父親の講釈が始まるんですね。
若い頃は、映画青年だった我が父は、もっぱら俳優のウンチクを語るのが定番でした。
長谷川一夫の大石はどうだったとか、三船は昔の映画では俵星玄蕃を演じていたとか、月形龍之介の吉良は絶品だったとか云々。

その頃にはもう、特撮モノは卒業して、かなりマセガキだった僕は、この「大忠臣蔵」には、かなりハマりました。
当時のクラスメイトを、忠臣蔵の登場人物に置き換えて、漫画を描いていた記憶もあります。
クラスではかなりウケて、担任の先生にも感心されたのですが、内容は、完全にこの「大忠臣蔵」のパクリでした。

とにかく、1時間枠で、全52回という、大河ドラマなみの大作ドラマでしたから、忠臣蔵にまつわるエピソードは、この「大忠臣蔵」には、ほぼ網羅されていました。
そして、当時の僕でも知っているような有名俳優たちが、次から次へと登場してくるのもシビれました。(コント55号も登場)
映画全盛期においては、オールスター映画というと、忠臣蔵が定番みたいになっていた時期がありますが、当時のテレビドラマでこの豪華さはなかなかなかったと思います。
銀幕のスターであった三船敏郎が、はじめての本格的にテレビドラマで主演を演じるということもあって、NETも相当気合が入っていたのでしょう。

というわけで、数ある忠臣蔵関係の映像作品を比べるにあたっての物差しとなるのが、僕の場合はこの「大忠臣蔵」ということになります。

そして、今回しばらくぶりに見た「忠臣蔵もの」が、東映が1959年に当時の東映スター総出演で製作した本作です。
ちなみに、1959年は僕の生まれた年でもあります。
しかし見たのは今回が初めて。ずっとDVDの棚に眠っていました。
本作で大石内蔵助を演じたのは、東映の重鎮片岡千恵蔵。
浅野内匠頭には、萬屋錦之介。そして、吉良上野介には進藤栄太郎というキャスティングでした。
誰でも知っている顔としては、美空ひばり、大川橋蔵、東千代之介といったフレッシュなスターも顔を揃えています。
オールスター映画ということもあって、上映時間も3時間の大作です。

しかしながら、当時の東映スターたちそれぞれに花をもたせながら、赤穂浪士討ち入りのドラマをまとめるのはこの尺でも至難の技。
なにせ、忠臣蔵は、江戸時代からのライターたちが、腕を競って積み重ねられてきた珠玉のエピソードの宝庫です。
すべての逸話を盛り込むのはどだい無理な話ですから、何を選んで脚色するのかが、脚本家のセンスということになります。
見終わってから、そういえばあの話がなかったなというものがいくつかありましたね。
僕が好きなものだけでも、ざっと以下の通り。

赤穂浪士を守って拷問にも口を割らなかった、「天野屋利兵衛は男でござる」のシークエンス。
大石内蔵助が、立花左近の名を偽って東下りをする際、その当人と相対することになる緊迫のシーン。
四十七士に加えられなかった俵星玄蕃が、追っ手を阻むために槍を持って、両国橋で仁王立ちになるくだり。
おかる勘平の悲恋の件。

まだまだあるのですが、このあたりは、全部カットでしたね。
中でも一番残念だったのは、討ち入り当日に大石内蔵助が、浅野内匠頭の未亡人瑤泉院の屋敷を訪れるシーン。
屋敷の腰元の中に、吉良側のスパイがいることに気がついた大石は、断腸の思いで暇乞いをするという偽りを伝えます。
「忠義の心も忘れたか」と絶望し、席を立つ瑤泉院。
黙って辞去した内蔵助は、降りしきる雪の南部坂を静かに去っていきます。
すると内蔵助が置いていった旅日記を、盗み見ようとする女間者。それを退治したのは戸田局です。
そして彼女がそれを開くとそこには、四十七士の血判状が。
大石が訪ねてきた本当の意味を初めて悟った瑤泉院は、自らの愚挙を悔い、亡き夫の霊前に合掌。

これが、まるまるワンセットで、いわゆる「南部坂雪の別れ」という、忠臣蔵屈指の名シーンです。
僕の見た「大忠臣蔵」では、瑤泉院を演じていたのは佐久間良子でした。
かなりグッとくるシーンでしたが、本作ではそのシーンそのものはあったモノの、美味しいところはこれからというところでバッサリ。
やはり消化不良感は残りましたね。
しかし、この辺りは、尺の関係で、端折ってしまうのはやむを得ないところかもしれません。
つまり本作は、ドラマそのものを楽しむよりも、オールスターそろい踏みの映画として割り切って見るべきなのでしょう。
要するに「お祭り映画」なのですから、楽しみ方も違ってきていいわけです。

江戸の昔から、忠臣蔵は庶民に愛され続けてきました。
物語の大筋からは少し外れて、四十七士の一人一人にスポットを当てた、スピンオフドラマもたくさん創作されてきました。
いわゆる外伝と呼ばれるものです。
あの有名な「東海道四谷怪談」も、忠臣蔵の外伝として伝えられています。
とにかく、忠臣蔵に絡めて物語を書けば、その出し物は絶対に当たるわけですから、ライターたちは智恵を絞って、物語を膨らませてきました。
こうして、日本人の心情の琴線に触れる名物フィクションとして、忠臣蔵は様々なメディアで創作され続けてきたわけです。

ところでなぜ、浅野内匠頭は、松の廊下で刃傷に及んだのか。
これは、実は歴史的事実としては、はっきりとは解明されていません。
ただ「遺恨やみ難し」という言葉とともに、小刀を抜き、上野介の額に傷を負わせたという事実が明らかになっているだけです。

今回見た東映作品では、浅野内匠頭が、饗応接待指南役の吉良に対し、賄賂を送らなかった為に、怒りを買って、ひどい仕打ちをされたという設定。
この他にも、内匠頭の夫人に吉良が横恋慕をしたとか、赤穂藩秘伝の塩の製造方法を教えなかったとか、内匠頭の小姓に吉良がちょっかいを出したなどなど。
ここは作品ごとにいろいろな解釈があるようです。
赤穂藩士の教育係だった山鹿素行という儒学者の薫陶を受け、赤穂藩士たちは、尊皇崇拝を叩き込まれていました。
彼らは、将軍を最優先とする室町文化の流れを汲んだ高家筆頭の吉良とは、饗応接待の作法において決定的に対立していたわけで、これが遠因だったという説もあります。

忠臣蔵をほぼ一般常識として受け止めてしまっている僕ら以上の世代は、刃傷の理由がどの説を取ろうと、作品が面白くさえあれば、無条件で納得してしまうところがあります。
しかし、今の感覚で、この浅野内匠頭の刃傷事件を改めて再考してみると、なかなか理解に苦しむこともあるのかなという気になったりもします。
浅野内匠頭は、才気煥発なお殿様ですから、自分の立場のものが、殿中で刃傷沙汰を起こせば、お家は取りつぶしとなり、藩士たちは全員解雇となることはわかっていたはず。
それにもかかわらず、一時的な感情を自制することができずに、愚挙に走ったのは城主としてはあまりに軽佻浮薄。
私心を抑えきれず、結果として家臣たちを路頭に迷わすような殿様に、同情の余地はあるのか。
そんな考え方があっても然るべきでしょう。

さらにいえば、忠臣蔵は、日本で最大の仇討ち事件だと言われますが、そもそも仇討ちとはなにか。
その定義はこうです。
「主君・親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすこと。」
この定義に従えば、浅野内匠頭は、吉良上野介に殺されたわけではありません。
むしろ、その吉良を殺そうとした加害者なわけです。
そもそも、この忠臣蔵を仇討ち事件と定義すること自体がそもそも筋違いなのではないか。
浅野内匠頭に、切腹を命じたのは、当時の将軍である徳川綱吉です。
つまり、赤穂浪士が、仇討ちするべき相手というのは、本来であれば将軍綱吉ということになるわけです。
吉良上野介といえば、欲の皮の突っぱった、意地の悪い爺さんというイメージが、忠臣蔵のせいで定着してしまいました。
しかし実際の彼は、領地経営に関しては、治水事業や新田開発などの功績を残しており、三河では名君として評価されており、人気も高い殿様でした。
この人は二重の意味で、忠臣蔵による被害者だったかもしれません。

年末の風物詩ともいえた忠臣蔵が、いろいろなメディアから姿を消して久しい昨今。
このドラマが、ふたたびリアリティを持って、日本人に受け入れられるようになる時代は来るのか。
明治維新以降は、それまで室町時代に置き換えられていた忠臣蔵が、元禄時代に舞台を戻し、登場人物も実名で演じられるようになりました。
終戦直後には、GHQにおもねって、仇討ちに否定的な忠臣蔵も作られています。
1994年に作られた「四十七人の刺客」は、定番の松の廊下のシーンをバッサリとカットし、赤穂浪士を幕府に反旗をひるがえすテロ集団として描いています。
このように、忠臣蔵はそれぞれの時代を背景にして、変遷を遂げてきました。
もちろん作り手たちも、如何にして、時代に受け入れられる忠臣蔵を作るかに注心してきました。

とにかく、江戸時代以来の日本人が、この物語を愛し続けてきたことは事実です。
集団が心を一つにして、本懐を達成するというカタルシスが、日本人の大好物であることだけは、どうやらまちがいのないところ。
今年のスポーツ界の白眉ともいえるWBCでのオールジャパンの活躍によ世界一獲得。
そう考えれば、この熱狂の裏にも、忠臣蔵を愛してきた日本人のDNAが脈々と息づいていたと考えるのも一考かもしれません。
討ち入りの後、主君浅野内匠頭の墓前に報告するために、泉岳寺までの道程を、勝ち鬨をあげながら行進した赤穂浪士たち。

これに、なぜか大谷翔平のガッツポーズが重なります。

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