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いつかのレモンイエロー試し読み【文学フリマ京都8】

   一章

 肌寒い気がする埃っぽい陽気を、僕は愛している。
 今日は昨日より暖かく、明日は今日より寒い予報だ。毎年四月は正月とはまた違った新しい気持ちになる。
『入学式にはいい気候じゃあないか? スーツは脱ぎ着しにくいし、これくらいがちょうどいい』
 「アイツ」にそう言われて僕はパイプ椅子の上で身動ぎした。特別動きにくいというわけでもないが、試着室以来の着心地にはまだ慣れていない。椅子の、パイプ部分が布の向こうから冷たさを訴えてくる。
 人々が集まって、体温で緩んできた朝の空気で呼吸する。
 大学の講堂は、限りなく体育館に似ていて違っていた。今は緑色のシートに隠れて隙間からしか見えないが、床はワックスがけされた板張り。目の前のステージには校章の刺繍が施された布で飾られた演台がある。けれどもバスケットゴールはないし、体育や部活で使うような道具をしまうような倉庫も見当たらなかった。しいて言えばステージ横だろうか。
 しかし、そんな観察よりも、あまり使われていないのだろうと思わせる気配が講堂にはあった。ここで運動する気にはなれないな、と息を吐きながら僕は思う。
 妙に高い、ずっしりとしたコンクリートの三角屋根を眺めていると、ピントが合ったようにざわめきが気になった。
 人がたくさんいる、と当たり前のことを認識する。僕は僕の存在を場違いに思った。
『スーツおかしくないかな』
 僕は心の中でアイツに語りかける。彼も今はスーツ姿だ。椅子は用意されていないので、講堂を歩く人々の邪魔にならないよう僕の傍らに立っていた。アイツが入学するわけではないのでこの待遇はおかしなことではない。そもそも存在すらしていないのだ。幽霊でもない、人工的な空想の人物。こういった存在を空想の友人と呼ぶこともあるらしい。確かに気安い仲だが、友人のつもりはない。
『まあ大丈夫だろ』
 今の彼はとてもお気楽な性格をしている。僕の顔も見ずに大丈夫だなんて。
『なんか信用できないんだよな』
『試着した時、いいじゃんって思ってたのはヒナタだろう』
『そうだけど、周りもこんなに同じだと逆に浮いてそうで』
『つまり没個性。安心しな』
 アイツはパイプ椅子の列と列の間にできた細い通路で片足立ちの一回転をした。スーツばかりの僕らを見渡したのだろう。けれども誰もアイツに目を向けない。当たり前で、ちょっと羨ましい。
 アイツのことは「アイツ」と呼んでいる。話しかける時は「お前」。僕が名付けなかったからだ。こいつ、と言っていい距離にいる時もアイツ呼ばわりしているのでたまに強烈な違和感に襲われる。が、僕しか知らないアイツへの違和感など無意味に感じて十年近く放ったままだ。
『ああ、そのキーホルダーは個性かも』
 彼が指さしたのは僕の鞄。角ばった黒い鞄には絵の具チューブを模したキーホルダーがぶら下がっている。僕はそれを付けたまま鞄の内側に移動させる。これで外から見えなくなった。
『こんなの、誰も付けてないね』
 かなり昔から持っていて、ずっと鞄に付けている。捨てようにも捨てようがなく、半ばお守りみたいになっていた。まさか没収されることはないだろうとこの鞄に移動させたが、如何せん鮮やかな黄色なので目立つ。
『隠さなくていいだろう。短いチェーンだし、すぐ出てくるさ』
 アイツの言うとおり、僕はこの動作を今日だけで数回はしている。
 視界の端の光量が減った。二つ開放されていた入り口のうち、一つが閉じられた。講堂内に時計が見当たらなかったので腕時計を確認する。式開始の時間ではないけれど、もう間もなくだ。
『どうしよう。周りの人全員天才に見えてきた』
『最初っからネガティブだな。最初だからか? 傍から見たら何も変わらねえって』
『嘘だ』
『ほんとほんと』
 呆れたように手を振って、アイツは僕を黙らせた。納得いかないが、言いたいことはわかる。僕の考えでもあるからだ。
 急ぐ足音が、さっきからぽつぽつとある。やや急かすような職員の声も。いよいよだという緊張感が、再び僕を包み込む。
 不意に視界が鮮やかになった。人が少ないからと通路に立って話していたアイツが掻き消え驚いた声を出したから、思わず僕は笑いそうになる。
 真紅の布に梅の模様があって、模様を境とするように足元は黒に染められている。防虫剤の匂いと共に、振袖だとわかった。小股で急ぎ通り過ぎていったのに、複雑に結ばれた白い帯はビクともしない。その帯も白梅で飾られていた。彼女を笑ったように見えたら大変なので、口角を少し上げたくらいで我慢する。

作品情報

こちらは、1/14の文学フリマ京都8で配布する作品です。
文学フリマの詳細は以下から。

この作品の電子カタログは以下から。

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