「祈り」のヒロシマと「祝祭」のカープと

カープ球団が創立70周年を迎えた今年はまた、広島に原爆が投下されて75周年にあたります。

昭和20年に広島に原爆が投下された5年後、つまり被爆5周年の昭和25年に廣島カープはプロ野球に初参戦しているので、5年ごとのアニバーサリーでこの2つは常に重なることになります。

よくいわれることですが、広島の「負の遺産」である被爆にたいして、広島カープは未来への「正の財産」というべきもの。あいは被爆のヒロシマが「祈り」であるのにたいして、カープは「祭り」とも理解されています。

かつてカープの本拠地が旧広島市民球場であったときは、原爆ドームという被爆の象徴と隣合わせでしたから、その意味合いが視覚化されていて、まさに天の配剤かと得心したものでした。

その霊的な意味合いもわきまえずに、また市民意見を踏みにじって、球団はじめ一部の利害のために拙速に球場を移転してしまった広島市にはたして平和行政を語る資格があるのかどうか、そうぎねんを抱いている市民は少なくはないでしょう。

慰霊碑からドーム

「被爆」と「カープ」とが同時に周年を迎えてきたことには、何か運命的な意味があるのでしょう。
広島にプロ野球の球団が誕生して「廣島カープ」になったわけですが、自然発生的にそうなったわけではありません。
広島が被爆地でなければ、たぶんカープは生まれていなかった。

被爆からの復興を支える動機として市民が内的に渇望したこと、被爆地広島だから持たしてもいいんじゃないかという外的な承認。この2つがあって初めてプロ野球にカープは参入できたのです。

その因縁の強さが、この巡り合わせにあらわれたのでしょう。

カープが昭和50年(被爆30周年)10月15日に初優勝した時に、そのことに意識的であった衣笠祥雄氏が、「広島市民は8月6日と、今日のことは決して忘れないだろう」と、ヒバクに言及されたのは必然だったのです。

カープを語るとき、被爆は避けて通れない。
また被爆からの復興をいうなら、カープの存在を抜きには語れないのです。

被爆75年の歴史を回顧すれば当然カープは論じられるでしょうし、カープ球団が創設されて70年を機会に、私たちはあらためて被爆についても考えてみるべきなのでしょう。


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