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前田智徳 天才の証明

プロローグ

「天才」ということばは、いつから野球のグラウンドに持ち込まれたのだろうか。
 前田智徳という不世出のバッターを語るとき、あるときから彼もこう形容されるようになっていた。
 気難しそうでひとを寄せつけない雰囲気から「孤高の求道者」とか「サムライ」とか、さまざまに言われた前田だったが、ことバッティングに関して言えば、この「天才」という表現しか見当たらなかった。
 おぼつかない記憶をたぐってみれば、「天才」と初めて形容されたのは、やはりイチローだったように思う。たまに賛辞として何人かの傑出した選手に使われるようなことはあっても、万人からそう呼ばれるようになったのはイチローが最初だろう。
 高卒でオリックス・ブルーウェーブに入団して3年目の1994年に、わが国で初めてシーズン200本安打を達成。最終的には210本を積み上げて、当時の記録を塗りかえた。その過程で日本中を熱気の渦に巻き込んだ若きバッターは、いつからか「天才」とわれるようになっていた。
 その天才が憧れたバッターということで、前田にもフィードバックしてこの形容がなされるようになった。前田の天才を、それまで私たちは、はっきりと認識してはいなかった。
 2013年10月3日、前田智徳は24年のプロ野球人生を終えた。本人はその精進と努力との結果に決して満足はしていないだろうが、バットマンとしてケリはつけた。一方、我々ファンは「天才」という端的で強烈すぎる表現に目くらましされて、前田智徳という選手像の全体を見逃していたようにも思える。
「天才」という仮面に隠れて、前田智徳は迷宮の奥に隠れるようにしていた。ある輪郭りんかくをもって見えてきたかと思うと、その裏にまた別の仮面をかぶった彼が顔を出す。右から見ていた前田が、左にまわってみれば、まったく別の容貌をしている。迷宮の奥からのぞく顔が、そのときそのときで別の表情をしていた。
 数字は嘘をつかない、といわれる。出場2188試合、生涯打率3割2厘、本塁打295本、積み重ねた打点1112点……。これらは誇れる数字だろう。しかし、こと前田に関して言えば、その数字におさまりきらない何かがあった。勝負にしんすぎた彼は、勝負するに値しない投手がマウンドに上がれば、ボールを3球見送ってそのままベンチに帰ってきてしまうような男だった。彼の場合は数字にも嘘がある。
 この希代のバットマンについて書かれた記事、あるいはコメントのたぐいは世にあふれかえっている。しかも、それらは未だに増殖し続けている。これらのちまたにあふれる情報や、彼の口から直接もれたことばから、前田智徳という選手像を組み立てようとすれば、一応ぼんやりとしたイメージは浮かび上がってくる。しかしそれが彼の全貌を表しているとはとうてい思えない。

 ──果たして前田智徳とは、いったい何者だったのか?


第1章 まつろわぬ魂


体育館壁面に残された
身体能力の証

 前田智徳が引退してから2か月近くがようとしていた2013年11月下旬、私は熊本県の玉名市に足を運んだ。 
 ──前田智徳とは、いったい何者だったのか?
 その答えを得るためには、彼の野球の原点である故郷の熊本に行くべきだと思ったからだ。
 真っ先に向かったのは前田の母校、岱明たいめい中学校だった。
 もう師走になろうかという日曜日。正午に近い校内はせいじゃくそのものだった。正門玄関から前庭をはさんだ奥にクリーム色の二階建ての校舎が見え、右手には図書館棟があった。中学校としては小規模な印象だ。駐車場スペースは、ほとんど車で埋まっていたが、ひとの気配はない。はるよりののどかな光が風景を転写してしまったようで、植栽が風にそよぐこともない。静止した時間に置き忘れられた絵画のようだった。
 野球部のグラウンドを探して図書館の横にまわってみた。すると渡り廊下が横切っていて、校舎に隠れるようにグラウンドがあった。そこでは白と青のユニフォームが入り乱れてサッカーの試合をしており、先ほどとはうって変わって躍動的な光景になった。渡り廊下に平行して帯状に延びる木蔭には、ゲームを観戦する父兄たちが影を同化させていた。
 景色はにぎやかになったが、あいかわらずあたりは静かだ。グラウンドからは、かけ声も叫びも聞こえてこないし、父兄たちから歓声や声援が飛ぶこともない。選手たちは黙々とボールを追い、父兄は淡々とゲームの進行を見守っていた。熱狂とは無縁の空間が、そこにはあった。
 グラウンドのどこにも、野球部が練習する姿は見当たらない。サッカーの試合に、そこは完全に占拠されていた。
 左手の奥には体育館らしい建物があった。サッカーのゲームを横目にしながら渡り廊下を歩いて行ってみると、玄関にはおびただしい数の靴が脱ぎ捨ててあり、足の踏み場もないほどだ。何が行われているのだろうか。ひとでごった返しているはずだが、不思議に壁の向こうからも物音は聞こえてこなかった。
 玄関の隅に靴を脱いで上がり、開放されたドアからのぞいてみると、フロアに2面とって女子のバスケットボール大会のゲーム中だった。入り乱れてボールを追う選手たち。右に走り左へと切り返すめまぐるしい動き。しかし彼女たちからも、かけ声やきょうせいが上がることはない。四囲にいる控えの選手や観衆からも音がわくことがない。視覚には見えている熱気が、聴覚に訴えてはこないのだった。
 まるでサイレント映画を観ているような、不思議な感覚……。
 まわりに見える景色のすべてが、私の侵入をこばんでいるかのようだった。
 所在なくあたりを見まわして、ふと見上げた壁に2枚のパネルが並んで掲げられていた。そこには『岱明中学校陸上競技歴代最高記録』とあって、さまざまな競技の記録と保持者の氏名が並んでいた。

 前田智徳は1971(昭和46年)6月14日生まれ。2歳のときに野球好きの父親にボールを与えられると、みるみる才能を開花させ、すぐに大人たちのソフトボールに交じって遊ぶようになった。小学3年生になって地元の草野球チームに入ってやるようになったが、そのとき低学年ながらすでに上級生よりうまかった。ほぼバッティングはできていたという。
 並はずれた身体能力の持ち主だった前田だ。中でも足が自慢だったという。もしかしたらここにそのあかしとして、名前が残されているかもしれない。そう思ってパネルに目をこらす。

 最上部に『短距離100メートル』。そこに彼の名前はなかった。中距離から長距離まで順番に視線をおろしていく。すると下のほうに前田智徳の名があった。

走り幅跳びの記録。思わぬ競技で前田の身体能力は発揮されていた 

さらに目をこらす。するとその下にも同じ名前があった。

  代表走幅跳 前田智徳 6m34
 
 代表ボール投 前田智徳 78m22

 走り幅跳びと遠投。このふたつの校内記録を前田は持っていた。全身のバネと肩の強さ、それが数値化されてこの奇妙に静かな体育館の壁面に、ひと知れず飾られてあった。
 なんとなく納得した気分になって体育館を出た。すると先ほどは見かけなかった女子中学生がふたり、通路の脇にうずくまってたわむれるように草むしりをしていた。
 反射的に声をかけた。
「野球部のグラウンドは……?」
 それはたぶん校外の、どこか違う場所にあるのだろう。期待もしていなかったが、ふたりは
「あっちでやってます」と、同時に体育館の裏手を指し示して言った。まるでシンクロナイズドスイミングでもしているかのように。
「ありがとう」
 いい演技だったよ、のことばはみ込んで礼を言うと、体育館の裏にまわってみた。
 そこは学校の裏門にあたっていて、敷地を出た土手の下にグラウンドはあった。木立の向こうの低いフェンス越しに、外野で守備練習をしているユニフォームの小さな白い影が見える。中には女の子も混じっていた。中学校の部活にしても、あまりにも緊張感がなさすぎた。休日に町のチームが借りて練習でもしているのだろうか。
 裏門の手前にワゴン車が駐まっていた。開け放ったドアから脚を出してシートに横になった男の影が見える。野球部の父兄だろうか、男はシートを倒してくつろいでいた。
「父兄の方ですか?」と声をかけてみた。
 男は上体を起こしながら言った。
「娘がバスケの試合に出てて」
 浅黒い顔。投げ出した脚はバネがありそうだ。マリンスポーツだろうか、何かしていそうなからだつきだった。
「前田智徳が、この学校の出身だって知ってます?」
「マエダ、って?」
「マエダトモノリを、知らない?」
「はい。サッカー選手とかなら」
 カープのホームである広島から離れた土地で、前田の知名度は低いのだろうか。しかし前田智徳という希代のプロ野球選手を、地元の人間が、しかも母校の関係者が知らないことに私は戸惑った。
 しゃくぜんとしないまま、体育館の外壁に沿ってホームベース側へと行ってみた。
 グラウンドは横長の四角形で、レフト方向に長く、ライトは極端に短い。低学年ですでにスラッガーぶりを発揮していたという左打ちの前田には、このグラウンドは狭すぎる。そう思った。誰もいないときにたまたま目にして、果たしてここが野球部のグラウンドだと認識できたかどうか。まるで団地でよく見かける、ありふれた公園のようだった。

校舎の裏手にあったグラウンド

 高い防護ネットで囲っているとはいっても、そこそこのバッターなら簡単に打球は越えてしまいそうだ。たぶんその先に広がる田畑まで打ち込んでしまうだろう。右中間には人家もあるから、屋根を直撃するかもしれない。
 ──狭すぎる。
 こんなグラウンドから、前田智徳というプロ野球でも傑出した選手が出たことが、にわかには信じられなかった。ここで前田が練習していたという事実を受け入れることは難しかった。
 ぼんやりと見つめていたグラウンドに、ピンとした緊張感が走った。上下ジャージの監督らしい男から指示が飛んで、守備からシートバッティングへと練習メニューがかわった。
 こどもたちのユニフォームには、背番号の代わりに大きく名前がマジックで書かれている。「佐崎」「田上」小柄な子は「森本」というらしい。中には「前田」君もいた。前田智徳の親戚なのだろうか。彼は主力組らしく、まっさきにゲージの右打席に入って打ち始めた。まだ非力だが、なかなかいいバッティングをしている。センスがありそうだ。
 さきほどの男がバッティングピッチャーを務めていた。ずんぐりとしたからだで、山なりのボールを投げている。
 その向こうで投げている男子は、本格派だ。そこそこのボールを投げていた。リズミカルなフォームに、躍動感がある。しかし、ほかのほとんどの子たちは、小さなからだにバットとボールを持て余して練習しているばかりだった。

田んなか(田んぼの中)で守らせてました

「球場の外の、熊本弁でいう〝田んなか〟で1年生を守らせてるくらい、なんぼでも飛ばす子がいる。一度見に来ないですかということで岱明中に行ったんですよ」
 それが田爪が前田智徳の存在を知った最初だった。
「噂だけではいかんので」と、田爪は実際に見に行くことにした。そのとき前田と学校の廊下ですれ違った。
「シャイな子だなー、て思いましたね。まわりがスカウトが来た、とはやし立てても下向いて、普通の中学生。ああ、これが前田か、というのが出会いです。特別からだが大きいわけでもないし、飛ばすというのを聞いていなければ、普通の中学生でした」
 この出会いは、ふたりにとって運命的なものだった。出会うべくして出会ったといえばそれまでだが、彼との邂逅かいこうがなければ、たぶんプロ野球人・前田智徳はなかっただろう。そして田爪にとっても、「人生の宝」を得ることはなかった……。
 前田智徳を語るうえで、この田爪正和という人物をはずすことはできない。前田が熊本工業高校に入学したときの野球部長。在校中から今日まで、影になりなたになって彼を支えてきたそのひとだからだ。
 プロ野球選手は、グラウンドでの結果だけを見ればいいという。しかし田爪のような人物なくして彼らはグラウンドに立つことはできない。彼らの野球人生には、必ず恩人というべき存在がある。監督でありコーチであり、また部長であり後見人であり、彼らを支え導いてくれる人物なくしては、いくら才能があってもプロ野球という狭き門をくぐることはできない。こと前田に関して言えば、田爪なくして今日はなかっただろう。
 田爪正和は、滋賀県生まれ。父親は熊本県最南部の球磨くま郡(現・人吉ひとよし市)で生まれ育っている。柔道が強くて長野県の高校に引っ張られた。繊維会社の東洋レーヨン(現・東レ株式会社)に勤めていたが、食料事情が悪くなって教員になったのが29歳のとき。田爪は双子の兄弟だったが、父親はそのうちのひとりを栄養失調で失ったのがショックで郷里の人吉に帰った。
 したがって田爪の育ちは人吉市だ。人吉高校から、母親の郷里である長野の信州大学の繊維学科に進学した。
「私は大学を出て6年間、民間の会社におったんですよね。親が教員だったので教員にだけはなりたくなかった。教員は二重人格だから」
 こんなことを、さらっと言ってのける田爪の屈託なさ、おおらかさ。この人柄が、前田との関係をく鍵になりそうだ。
 その会社で転勤の話が出たとき、そろそろ郷里に帰ってきてくれと懇願こんがんする母親の願いを聞き入れて、長男の田爪は熊本に帰ることにした。そして熊本工業高校(熊工)の教員になった。29歳のとき。父親が教員になったのと同じ歳だった。
「外から見ていた熊工のイメージが、入ってみたら、なーんか、こんなもんかというのがありましたよね。熊本県一の工業高校がこれくらいかと」
 歯にきぬを着せぬ田爪からは、辛口のコメントが次々と飛び出てくる。
「まーあ、ダメ。担任してみたら、そんな生徒が野球部とか陸上部とか言うわけですよ。文武両道で校内ももっと溌剌はつらつとしていると思った」
 期待が大きかっただけに落胆した。そう語る田爪の表情は柔和だ。厳しい評価が田爪の深い愛情の裏返しであることはすぐにわかった。
「工業学校ですので、専門を教えるというのもありますが、社会人になりますので、会社に入ってからのことを指導したいという気持ちはありましたよね。それが挨拶あいさつだったり、服装だったりですね」
 熊工は生徒1200人の大所帯。
「それで、自分の科(繊維科)だけでもきちんとやろうと、やかましくやっていたということですよね」
 そんな田爪を見込んで、校長が直々に野球部長にと勧めた。
「クラスの40人まとめるのも、野球部の100人をまとめるのも一緒、と言ってですね」
 生徒指導がきちんとしている担任としての田爪の力量、熱心さや調整能力を校長が評価して、ということのようだ。
「私、最初はお断りしたんですよ。なぜかというと遊べなくなってしまうんで」と、柔和な表情をさらにくずして、田爪は悪戯いたずらっ子のように笑った。
 遊べなくなってしまう。それはもちろん冗談だ。その裏には、ほかの理由があった。熊工野球部の部長は、歴代ずっと学校のOBが務めてきたからだ。
「野球部というのは熊工の中でも聖域でしたから。私は人吉高校という、まったく関係のない高校のOBですし、それに野球もしていないので」
 もともと野球好きな田爪は、毎日のようにグラウンドには通っていた。しかし関係者以外は、たとえ教師であっても中には入れなかった。グラウンドの外周の通路からしか見ることができない。スタンドへの階段をおりることすらしなかったという。
「それで断り続けたんですけど、部長というのは野球を知らなくてもいい、野球部の担任と思って部長、まあやれ」と、校長に説得された。
 半年ほど悩んだ末に、田爪は引き受けることにした。
「野球部長になったのは、巨人に行った緒方の担任だった頃、彼が2年生でしたから昭和58年か59年でしたか」
 田爪の野球史を語るキーマンとして、度々話題が出てきた緒方耕一。田爪の記憶の中を前田とはまた別の意味で彼の存在が占めていることがわかる。しかしあくまでも前田の年譜の補助項目としてそれはあるらしい。
 1986年、3年生のときに春夏連続して甲子園に出場。その年のドラフト会議で読売ジャイアンツから6位指名を受けて入団した緒方は、3年後の1989年、前田がカープに入団する1年前に打数は少なかったものの一軍で3割を打ち、16盗塁を記録している。
 翌1990年には33盗塁で盗塁王を獲得。しかし日本シリーズの試合で一塁に駆け込んだときにアキレス腱を痛め、以後は出場機会が激減している。1993年には一時復活して、再び盗塁王を獲得したが、アキレス腱の後遺症などもあって、1997年に30歳の若さで引退している。
 緒方と前田。熊工の先輩後輩が、同じように一塁へのベースランニングの際にアキレス腱を痛めていた。しかし前者は故障から選手生命を断たれ、後者は、そのアクシデントと付き合いながら選手生活を全うした。運命のアヤとでもいうのだろうか。

 この田爪が熊工の野球部長になるのを待っていたかのように、前田は岱明中学から熊本工業高校の門をくぐることになった。
 その辺のいきさつも、田爪の口から聞いた。
「だいたい岱明中学というところは、バドミントンとか野球とか、スポーツの盛んなところですよね。私が熊工で担任した生徒の中に、岱明中で前田の6つくらい上の先輩で、もくでスポーツ万能の子がいた。おおしもという駅の近くのラーメン屋の息子だったんですが、いいんですよ、技術もだったんですが、ハートが強くて」
 野球経験のない田爪は、野球のスキルではなくて精神的な面を見ていたという。田爪の持論は、海沿いの子は気持ちが強いからか、野球でも逸材が出ているというものだった。銚子商業とか四国の沿岸部の高校であるとか、強豪校が少くない、と。
「岱明中もすぐ目の前に海があるんですけども、ああいうところで育った子というのは強いですよね。私は山で育ってるんですが、山の子はどちらかというとおとなしいのかなと」
 前田が生まれ育った玉名市岱明町は熊本県の北部、阿蘇山を水源とする一級河川、菊池川の河口に広がるちゅうせき平野にある人口1万5千人足らずの「海の町」だ。しかし、あたりを車で走ってみると、ここが海沿いの町とは思えない。どこか山間の里のようなたたずまいだった。海と山との両義性をはらんだ町とでもいったらいいのだろうか。
 田爪の言う海の町、山の中という環境から導く気質論をれば、バットを手にしたときの集中力と闘争心と、グラウンドを離れたときのシャイな部分をあわせ持っていたかのような前田については、田爪の説は当たっていなくもない。
「そのラーメン屋の子の代も甲子園に行った。そのとき私はまだ担任として応援してただけで、その頃は野球部には関わっていなかったんですけど」
 ラーメン屋の息子を通して、田爪は岱明中の監督と面識があった。そして部長になったあるとき「とてもいい子がおる」と話を持ちかけられたのだった。
 前田の噂は当時の熊工の監督も耳にしていた。それで調べてみようという話になった。
「調べるといっても中学校を通してのことで、成績くらいです。熊工は公立ですから受験して通ってもらわんといかんわけですから」
 ところが途中から雲行きが怪しくなってきた。そのうち、前田という少年は性格にいろいろ問題があるみたいだから、もういいという話になった。
「まあ、いま見ても扱いにくいですよね。引退してから、ひとが違ったように丸くなりましたが、やっぱり頑固だし」
 田爪は、そう言って苦笑いした。
「当時も、こどもながらに芯があるといいますか。一風変わってたんでしょうね、大人が見て扱いにくいという。そういう風評が監督の耳に入ってきたりですね」
 それで今回は見送ろう、ということになった。
「チームの和というものを考えたときにどうかな、ということでしたよね。力だけなら傑出した選手ですから獲りたいんですが、その頃の熊工はだいぶん強かったですからね。彼ひとりくらいいなくても甲子園へは行けるんじゃないかという雰囲気がありましたね」
 それで田爪は、あらためて事情を説明に行った。来てくれるのはありがたいが、無理して受験してくれなくてもいい。話は白紙に、ということだった。
「ところが岱明中の監督さんは、絶対にこの子は間違いがない。だまされたと思って、あずかったらいいよ、と強く言われてですね」
 それで田爪が後見人のような形で、前田は熊工の野球部に入ることになった。
 いまでは縁というものを感じる、と田爪はあらためて言った。
 もちろんこの縁は、前田智徳という少年からも言えることだったのだが……。

前田君は
有名になってモテた

 すったもんだはあったが、前田は導かれるように熊本工業高校に入学し、野球部に入った。親元を離れての下宿生活。田爪が世話をして「えびす食堂」という仕出し屋に一室を借りた。
 田爪の案内で、そこを訪ねてみた。前田が卒業してからもう20年以上も顔を出したことがなかった彼は、まだその建物があるかどうか半信半疑だった。
 熊本城のほど近く。市内を蛇行して流れる白川しらかわから引いた用水路に面して、その建物はあった。薄茶色の木造モルタル二階建て。老朽化が進んでいて、仕出しの営業をしている様子はない。しかし、築後の年数を想像すれば、20年余りという年月はさしたるものではなかっただろう。きっと当時の外観とそれほど変わってはいないはずだ。
 ただ、隣に建つモダンなビルや高層マンションに挟まれて、時代にあらがうようにこの建物だけが異彩を放っていた。その佇まいは、プロ野球界でも特異な存在だった前田智徳の姿に重なるようでもあった。

 突然の来訪にもかかわらず、家主は「散らかってますが」と、招じ入れてくれた。田爪には好印象を持っているようだった。
 えびす食堂は、原千代子さんが中心になってきりもりしていた。彼女の妹さんと娘さんのかた夫婦4人での家族経営だった。妹さんはすでに亡くなり3人だけが静かに余生を送っている。いまでも当時の食器棚や調理器具がそのまま残されていて、忙しく立ち働いていた様子がよみがえってくるようだった。
「にぎやかで、楽しかった」
 前田たちとは語る暇もなかったという時間を取り戻すように、潟田夫婦は交互に思い出をつむいでいった。
 朝5時に仕入れに出かけ、生徒7、8人分の弁当とおにぎりを持たせ、それから仕出し弁当を配達して片づけが済むのが午後3時頃。それまで休む間もなく働いた。盆正月もなかった。
 旧交を温めるような田爪と潟田夫婦との会話を、原さんはかたわらの椅子に座って、杖にあごをあずけたまま静かに聞いている。そして記憶をび起こすらしいキーワードが耳に入ると、納得したように小さくうなずく。それらの記憶は、悪くない思い出のようだった。
 前田が引退した2013年に、原千代子さんは90歳の卒寿そつじゅを迎えようとしていた。ということは、あの頃すでに70歳に近いご高齢だったことになる。
 3食付き、ならぬ4食付き。授業前の朝練のあとに食べるおにぎりも毎日持たせてやって、一般の下宿よりも格安だった。原さんの親類から送ってもらう米や野菜を使ってのやりくりで、仕出し屋だったからこその厚遇だった。
 前田たち野球部員は、早朝に朝食をとると、7時に出かけて行って朝の練習。夜の9時か10時に帰ってくると、そそくさと食事を済ませて用水路を挟んだ隣の公園で素振りをしていた。

練習から帰って素振りをした公園

 その公園には失業対策の管理事務所があって、ここに通っていた口うるさいおじさんたちが登校する前田たちに声をかけてきた。
「きのうのバッティングはヘッドが下がっていたとか、肩が開いていたとか、そんなことまで言われてましたもんね」と、義息の潟田氏。
 彼の脳裏にも、ほこりをかぶってうずもれていた記憶がよみがえってきたようだった。
「せからしか、思ってたんじゃないですか」
 そう言って表情を崩した潟田さんにうながされるように、私もつい口元をゆるめてしまった。
「お前に言われんでも、わかっとる」
 いかにも前田らしくそう言い放った光景を、つい想像してしまったからだ。
「前田君は、まじめでしたよ」
 潟田氏の奥さん、原さんの娘さんのことばと連想とのギャップがまた面白かった。
「あの頃はよかった」
 奥さんは、目を輝かせるようにそう言った。
 この下宿を斡旋あっせんした田爪は、頻繁ひんぱんに顔を出した。そして部員たちの生活態度を厳しく監視していたらしい。それで、あの頃の熊工野球部の評判はよかったようだ。
「部員の部屋でエロ雑誌なんか見つけると、それを持ち帰って教室で広げて見せて、誰んか? と問い詰めたりですね。それこそ、せからしかと思ってたでしょうね」
 潟田さんによると「前田君は有名になってモテた」という。
 甲子園に3回出場している前田だ。しかも3年生の夏は、絶大な人気を誇った大阪・上宮高校の元木大介と「右の元木・左の前田」と並び称された男だ。地元の女子学生の関心をかないわけはない。通学の出待ちでたむろしている彼女たちを避けて、裏道を逃げるように自転車を走らせていたという。
 田爪は部員宛に届いたラブレターはすべて保管して、卒業のときに手渡すようにしていた。その彼に言わせれば、前田が一番だったということはなかったらしい。たぶん当時も前田は前田らしく、ぶっきらぼうだったのだろう。出待ちの女子学生を振り切って自転車を飛ばす前田の姿が目に浮かぶようだった。
 学生たちが使っていた下宿は、外階段を上がった2階にあった。狭い踊り場できゅうくつに木製のドアを開けると、廊下を挟んで左右に扉が並んでいた。下の厨房兼食堂からは想像できないほどの部屋数があった。いまは住む人もなくなった古びた下宿は、当時のまま時間が止まってしまっているようだった。そのためかえって往時の佇まいがしのばれた。
 裸電球に照らされて、廊下は不思議な洞窟のように見えた。そんな異次元の空間を前田や緒方や、学ランやユニフォームのたくましい青年たちが行ったり来たり、ごった返している光景がに浮かんだ。そこにはプロ野球に入った者、社会人で野球を続けた者、挫折して別の道を歩んだ者、さまざまな生徒たちがいた。その彼らの心模様の記憶が、その不思議な空間で交錯していた。
 前田が使っていた部屋は、入口のすぐ左手にあった。扉の横には、「桐」と書かれた古びた木札がかけたままになっていた。四畳半の部屋はくすんではいたが、壁が白いペンキで塗られていたのと入口側にある窓からの明かりで意外に暗くはなかった。たたみの向こうには軒下になるのか広い納戸のようなスペースがあって、前田の後輩のものだろうか、スポーツバッグやベルトなどが置き忘れたままになっていた。
 卒業してこの部屋を出た年すでに、前田はまばゆいばかりのカクテル光線を浴びて、万単位の観客の前でプレイするようになっていた。たった3年の下宿生活だったが、この狭い部屋で羽化を待つ蝶のように前田はふくのときを過ごしていたのだった。

前田たちが寝起きしていた下宿を望む

ぼくも
あんな選手になりたい

 野球部のグラウンドを離れてから、岱明中学校のまわりをまわってみた。
 あたりは、まばらに人家が点在するほかは田畑と遊休地ばかりだ。その雑然とした空間を、細いアスファルト道がうねるように走っている。いや、蛇行する道に沿って人家や田畑が配されていると言ったほうがいいだろうか。とにかくまっすぐな道はない。
 人家に隠れるように道は曲がり、あるいはT字路の土手にぶつかって消えてしまう。複雑な地形がとりとめもなく広がっていた。まるでとらえどころのない前田智徳という巨大な人間がそこに横たわっているようだった。
 小さな畑に出たとき、菜の花や野菜の緑をぬって戯れるように飛んでいる季節はずれのモンシロチョウを見かけた。それを、ひとりの女の子が網を持って追っていた。
 モンシロチョウは彼女をからかうように、フェイントをかけるようにひらりひらりと逃げている。女の子は畑の間を足で探りながら、ぎこちない動きで追っている。その向こうで、弟らしい男の子がブロック塀に背をもたせて草をいじりながら女の子の動きを見やっていた。
 そんなのどかな光景を見ながら横を過ぎようとしたとき、足元にプラスチックの籠を見つけた。中で一羽の白い蝶が暴れていた。窮屈な空間に閉じこめられてしまった息苦しさから、必死に逃れようとして。
 岱明中のグラウンドで聞いた前田の評判を、私は思い返していた。それは、必ずしもいいものばかりではなかった。練習が終わったのを見届けて、その場を離れようとした私を見つけて、ひとりの中学生部員が声をかけてきた。
「スカウトのひとですか?」
 すると練習を終えて階段を足早に駆け上がって、グラウンドをふり返って一礼した部員たちが、次々に集まってきた。たちまち10人ほどのこどもたちの輪が広がった。
「歳を当てたら、スカウトしてあげるよ」
 そう冗談を返すと、彼らは屈託なく応じた。
「うーん、48歳かな?」
「きっと52だよ」
「58!」
「……」
「残念、はずれだね」
 そう言うと、悔しそうに顔をゆがめている彼らに私はいてみた。
「ところで前田智徳、知っているよね」
 知ってる知ってる、と輪がざわめいた。
「ぼくも、あんな選手になりたい」という声がいくつも返ってきた。プロ野球選手になること。それは彼らの夢でもある。そして前田のような成功者になることが…。
 そんな会話があいなく交わされていたところに、少し離れたところから声が上がった。
「あんなになっちゃいけない、と言われた」
 声は小さかったが、語尾まではっきりと聞こえた。
「そんなこと、言われた?」
「自分のことしか考えていないって。ケチっぽいとか」
 すると、その発言に誘発されたように、いくつか同調の声が上がった。
「1億円の契約金で、寄付はバット1ダースだけ」
「それを聞いて、口も利いてくれないようになったって」
 ある人物の陰口が前田本人の耳に入って、以後は口も利いてもらえなくなったということらしい。
 土地を離れて功成り名を遂げた者に対する地元の複雑な気持ち。賞讃と応援と、またしっ羨望せんぼう。もろもろが入り混じった感情を、この土地だけが逃れることはできない。いや濃淡で言えば、このあたりはそれが濃い土地柄なのかもしれない。
 そんな陰口とか評判がひとり歩きして、いつしか人物の〝伝説〟はでき上がってしまう。それが等身大のものであっても、過大評価されたものであっても、悪い噂で脚色されたものであってもだ。

 地元での前田は過大評価されたり、かいかぶられているふうではなかった。プロ野球での功績をたたえられるばかりではない。些細なことが拡大解釈された人物像がひとり歩きしている、そんな印象もあった。
 郷里でのそんな陰口を聞き知って、前田は頑なになっていたかもしれない。陰口をした人間とは、それからは一切口も利かなくなったように、前田はこの土地での一部の悪評を聞き知って、郷里を敬遠し、いつか見返してやる、そんな思いを抱いたのかもしれない。
 ──郷里への意地ともいえる動機が、前田の現役生活を支えていたのではないか……。
 荒涼とした土地を過ぎる風のように、そんなことが私の頭をよぎっていた。
 呆然ぼうぜんと虫籠の蝶を見つめていた私に、さっきの男の子が近づいて話しかけてきた。2、3歳だろうか、人見知りしない子だった。
 男の子は必死にことばをかけてくるのだが、早口なのと方言なのとで、意味がはっきりと聞き取れない。こちらはあいまいに返事をするしかなかったが、男の子はかまわず言いたいことを言いつのっていた。ただ最後に、「あとで離してあげるんだ」という意味のことを言ったのだけは理解できた。
 お姉ちゃんが蝶をっていることを、大人にとがめられるんじゃないかと気づかって、彼なりにかばいたかったようだった。
「そうなんだ。それはよかった。きっとチョウチョさんも喜ぶよ」

 しばらく歩いた先で、洗車をしていた若夫婦に出会った。ふたりにも前田のことを知っているか、と訊いてみた。
「ええ」と、ふたりは顔を見合わせながら答えた。
 ふたりとも、前田のことは知っていた。そればかりか男は地元の高校生のひとりとして、地元では有名だった前田を見かけたことがあった。そのとき前田は、他校の生徒と通学の車内でトラブルになったというのだった。
 それは通学の電車でのことだったという。大野下の駅で乗車してきた前田が客とぶつかって、あやうく突き倒しそうになった。その客は他校の生徒に抱きかかえられて、ことなきを得たが、近くに座っていた生徒が前田に注意した。
 すると2、3人いた前田の連れのひとりが、「前田さんに何かあったら、お前に1億円の契約金が払えるとか?」と息巻いて、み合い寸前になったのだという。
 前評判が高かった前田が、なぜドラフトで上位指名されなかったのか。その理由のひとつとして、ある暴力事件が語られていた。野球部の後輩が他校の生徒にケンカでやられたのを、前田がひとり殴り込んで相手を叩きのめした、という事件だ。そのことが怪文書で流されたために、各球団が指名を敬遠したというものだった。
 しかし、その事件はどこか眉唾まゆつばに思えた。ドラフト前の大事なからだを張って、後輩の仕返しにひとり殴り込みをかけるほど前田は無鉄砲ではないだろう。そんなことで野球を犠牲にするほど愚かでもないはずだ。何かさいな事件がきょっかいされ尾ひれがついて伝わったものだろう。 
 男から聞かされたのは、まったく違う話だった。
「1億円の契約金」
 ということは、前田のカープ入団が決まったあとの出来事ということになる。週末に実家で過ごしたあとの、通学の時間だったのだろうか。
 プロ入りが決まってからも、前田には浮ついたところはなかった。かえって練習に身を入れるようになったといって、田爪は感心していた。プロ入りを決めた生徒の中には祝賀のパーティーを開いたり、はめをはずして遊んでみたり、気を抜く者が多い中で、前田はこれからが大事だといって気を引き締めていたという。そんな前田像と、この話はそぐわない。
 あとで詳しく紹介するが、前田がプロ入りすることになったドラフト会議は、彼にとっては不本意なものだった。希望の球団からの指名はなく、思いもしなかったカープ球団からの下位指名。恋がれた球団が1位指名したのは、よりによって甲子園でライバル視された同じ高校生の元木大介だった。そのことで自棄やけになったとすれば、そんな前田の気持ちと、この話は符合する。
 ドラフトでの上位指名をほのめかした球団が、ことごとく自分の指名を回避したように、前田には思われただろう。約束を破った大人たちへの不信と怒りと恨み。それが不注意な行動につながったのだとすれば、あり得なくもないことだった。
「1億円の契約金」
 この金額が、地元でひとり歩きしていた。前田を語るさまざまなエピソードに、この1億円が奇妙にリアリティを添えていた。

第2章 サムライとその時代


足はベース1周13・8秒で
自信あります

 ところで、前田がプロ入りした年のドラフト会議はどんなものだったのか、ここでふり返ってみたい。超人、異才たちがひしめく世界への入口で繰り広げられたドラマだ。ここから前田智徳の20年余りにわたるプロ野球界での時間が流れ始めた。
 この年のドラフトでは、超目玉に新日鉄堺の野茂英雄がいた。中央球界ではほとんど無名だった投手。それが彗星のように表舞台に現れた。彼は史上最多の8チームから1位指名を受け、抽選で指名権を獲得した近鉄バファローズ(現・オリックス・バファローズ)に入団した。8球団が競合したのはドラフト史上、この野茂と翌年の小池秀郎(亜細亜大)しかいない。
 野茂はルーキーイヤーに18勝8敗、防御率2・91、287個の奪三振で、最多勝と最優秀防御率、さらに最多奪三振の投手部門の主なタイトルを独占した。もちろん新人王も獲得している。
 それから5年間で4年連続最多勝投手になるなど球界のエースに君臨したのち、野茂はメジャーリーグに新天地を求めてロサンゼルス・ドジャースに移籍。「トルネード投法」で並みいるスラッガー相手に三振の山を築き、メジャー通算123勝。ノーヒットノーランの偉業を二度も達成し、日本人メジャーリーガーのパイオニアとなったことはあらためて紹介するまでもない。
 この野茂を抽選でのがした大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)が、はずれ1位で指名したのが東北福祉大学の佐々木主浩かずひろ。6年目の1995年から4年連続してセーブ王となった彼も、野茂のあとを追うように海を渡りシアトル・マリナーズで大活躍した。
 やはり野茂をはずしたロッテが1位指名したのが、早稲田大学の小宮山悟。彼は佐々木と入れ替わるようにベイスターズに移籍入団したのち、やはり海を渡ってニューヨーク・メッツに転じている。とにかく才能も体格も並はずれた選手が、こぞってプロ野球に身を投じた年だった。
 そんな彼らと肩を並べるように、元木大介は野茂のはずれ1位でダイエー・ホークスに指名された。巨人しか行かないと明言していた元木だったが、甲子園通算6本塁打。甘いマスクで人気者となっていた彼をホークスは強行指名した。
 前田がライバル視していたという元木が、自分が希望していた球団に、しかも1位で指名された。それに引き換え、自分は思いもしなかった球団からの下位指名だ。
「負けず嫌い」な前田が平静でいられるわけもなかっただろう。その評価への不満とともに、自分の気持ちを踏みにじり、上位指名をほのめかしながら約束を履行しなかった大人たちの世界への不信にさいなまれたであろうことは想像に難くない。
「希望外で動揺」というコメントが、当時の新聞記事にも残されている。そのとき記者から広島の印象をたずねられても、前田は終始無言をつらぬいた。
 当然、前田とカープとの交渉は難航した。ドラフト指名されたのが11月26日。それから10日が経過した時点で球団は自宅、学校に三度足を運んでいるが、かんばしい反応は得られなかった。
「本人も家族もダイエーの上位指名ではなく、予想外の広島だったことに動揺。気持ちの整理に時間をかけた」と、田爪もコメントしている。
 前田がようやく入団に合意したのが12月13日。そのときは契約金3800万円、年俸420万円で仮契約と発表されている。
 その際「希望どおり1番を打つ選手に育てたい」と、スカウトした宮川孝雄が語っている。つまり交渉の過程で前田がそんな願いを語っていたということだ。長い交渉でのやりとりで、前田が夢をもらしてみたり、宮川がそれに答えやヒントを与えてみたりというキャッチボールが行われていたのだろう。そのうち契約金は、いつしか1億円にまで跳ね上がっていたということなのだろうか。
 前述したように、この入団交渉に田爪は少なからず関わっていた。その彼が回顧する。
「広島に行くとき、なんで2週間も悩んだのかというのは、おそらく環境が変わること。そっちが問題であって、野球に関しての力、自信はあったんでしょうね」
 プロでやっていけるかどうか、という不安や迷いはそれほどなかったということらしい。
「ダイエーから話があったもんですからダイエーがいい、九州だから。環境が変わるの嫌だから」
 それでホークスからの指名を期待し、予想もしていたのだろう。
 ところが、いざフタを開けてみたら広島東洋カープ。
「とんでもない。広島なんて行ったこともない。そんなところになんで、ということでした」
 そこで田爪は宮川に知恵を与えた。
「私のほうから宮川さんに、前田は環境なんだから(それで悩んでいる)。だけど野球に関しては教わりたい、立派なひとから。熊工でも教わったことはないと思うので」と。
 すると宮川は、分厚いメジャーリーガーのバッティング理論を説いた本を持参した。前田がメジャーリーグへの夢を語ったからのことだろう。
「すると前田は関心を示したんですよ。宮川さんは、あれがききましたねって言います。前田は宮川さんのバッティング理論というのはすごいですよって言いましたから」
 こうして前田の頑なな気持ちはとけ、カープに入団することになった。
 そのときの会見のコメントは次のようなものだった。
「カープのゲームはテレビ以外では観たことはないけれど、そつがなく強いチームだと思う。足はベース1周13・8秒で自信あります。1日も早く一軍に上がることを目標にして頑張りたい」


長い闇夜に
ひとり輝いていた一等星

 では、前田が入団した当時、カープはどんなチームだったのだろうか。
 彼がドラフトで指名された1989年は、読売ジャイアンツについでカープはリーグ2位。古葉竹識監督から阿南準郎監督へと続いた黄金時代の余力がまだ残っていた頃だった。監督はミスター赤ヘル・山本浩二で、彼が就任した年のシーズンオフに前田を指名していた。
 脇をかためる首脳陣には、鬼軍曹と恐れられた大下剛史、次期監督となる三村敏之、高代延博、投手コーチに安仁屋宗八、池谷公二郎、そして打撃コーチには水谷実雄がいた。
 投手にエースの北別府学(33)、大野豊(35)、川口和久(31)、さらに翌年を最後に脳腫瘍で戦列を離れることになる〝炎のストッパー〟津田恒美(30)もいた。
 内野手は正田耕三(28)、野村謙二郎(24)、小早川毅彦(29)、外野手には西田真二(30)、山崎隆造(32)、長嶋清幸(29)、長内孝(33)など。捕手には達川光男(35)がいて、ここに緒方孝市(22)、江藤智(20)といった次代を担う若手が控えていた。
 またトレードでロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)から、前々年に打率3割2分7厘でパ・リーグ首位打者となっていた高沢秀昭外野手、3割バッターの水上善雄内野手が入団している。
 このトレードで彼らと交換でオリオンズに移籍したのが、当時カープ最大のスターだった髙橋慶彦(32)だった。白武佳久(29)、杉本正志(当時・征使)(22)両投手を加えての3対2の大型トレードだった。
 チームによかれという思いから、度々球団フロントやチームメイトと衝突していた髙橋は、その数年前からトレードの噂が絶えなかった。しかし折り合いがつかずに、どれも破談に終わっていた。それでも球団はトレードをさくし続け、ようやくオリオンズとの間で合意をとりつけたのだった。
 いま思えば、この年の前田智徳の入団と、髙橋慶彦のトレードは象徴的な出来事だった。カープが常勝球団であった頃のスターと、長期低迷期にひとり異彩を放っていたスター。その交代劇がこの年にあったのだ。
 ともに強い個性でファンの記憶に残る髙橋慶彦と前田智徳。どちらも勝利には貪欲どんよくだったが、強いチーム意識からチームメイトや首脳陣ばかりか、球団フロントにまで意見を主張した髙橋に対して、前田は究極にまで磨いた個人プレイの集約としてチームの勝利があると信じるようなところがあったように思う。同じ個性でも、発散させるベクトルが違っていた。
 髙橋慶彦は、カープというチームが光り輝いていた時代のスターだった。そして前田智徳はといえば、カープ低迷期の闇夜にぽつん、とひとり輝いていた一等星だったと言えるかもしれない。

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