この素晴らしき世界
この世にし 楽しくあらば 来む世には 虫に鳥にも 我はなりなむ
巻3の348 大伴旅人
一般訳
この世でさえ楽しかったら、来世では虫にも鳥にも私はなっていいのだ。
解釈
この歌も旅人の讃酒歌といわれるものの1首。歌のなかに酒に関するものはなにも出てきませんが、一献かたむけての詠ということでしょうか。
大伴旅人は還暦を迎えるような老齢になってから、左遷されたかして太宰府に赴任しています。このとき着任してすぐに愛妻を失うという不幸に見舞われてしまいました。それからは酒に孤独を癒すような生活をしていたといわれています。
その寂しい心境は、この歌によくあらわれていました。
妻を失った悲しみから酒におぼれはじめてしまった。そんな日々のなかで詠んだ歌。杯に杯を重ねながらの、なかば捨て鉢な心境を吐露したものという解釈が一般にはなされているようです。
折口信夫は「口訳万葉集」で、この歌を大意こう解釈しています。
この世で享楽に溺れていたら来世では人間に生まれ変われないというが、今さえ面白おかしく暮らせたら、来世は畜生道に落ちて、虫になり鳥になっても、甘んじていよう
儒教的、仏教的な世界観を持ち込んで、一歩踏み込んだ解釈を折口はしています。なるほど、と納得する理解です。
しかし、ここではさらに踏み込んで読み込んでみたい。
旅人の讃酒歌13首は338から350までにまとめられています。そのほとんどの歌には「酒」とか「盃」、あるいは「酔う」とか酒に関する表現があらわれています。
ところが、この歌とこれにつづくつぎの歌にはそれがない。
生者つひにも死ぬるものにあれば今ある間は楽しくをあらな
これらの2首は酒席でいい気持ちになって詠ったもの、あるいはその心持ちに託して心境を詠ったものではあっても、酒そのものを讃える歌ではありません。そこに酒に溺れて刹那的な享楽に身を委ねる男の影とともに、酔いに喩えて人生の素晴らしさを讃える、人生讃歌を詠じた男の姿があったと理解してみたい。
それも一興でしょうし、そのほうが救いがあります。
スピリチャル訳
ああ、いい心もちだ。こうして酔っているとこの世の素晴らしさをしみじみと思うのだ。こんな世にまた生まれ変われるのなら、虫になっても鳥になっても私はかまわないぞ。
(禁無断転載)