1月5日(水)
夢はどこから来るのか。あるいは夢でどこにアクセスしているのか。
子猫のように愛らしくトカゲのようでもあった小動物と戯れていた神社の境内、あるいは田舎のあぜ道のような場所を思い返していて考えた。あの景色はいったいどこだったのか。記憶のなかの光景だったのか。覚えはないから脳内で補正したものなのだろうか、などなど。
記憶が脳内にとどまっているのではない、らしいことは感じている。1996年の夏のある日、とある神社の境内で朝日を拝んだとき、人類の記憶のすべてが目の前のスクリーンに流れるのを瞬時に見たことがあったせいだろう。ある記憶が何世紀ものときを経て、突然ある人物に蘇ったという実例も少なくない。
コンピュータ技術や通信技術は、もともと人間に備わっていて、しだいに失ってしまった能力を補完しようとする要請から生まれたものでもある。クラウド機能などは記憶のシステムを機能化したものだろう。データを雲のような場に保管して、必要なときにアクセスする。ひとの記憶もクラウドのようにある場所に、否、いたるところに保管されている。個人の経験や知識は本人がアクセスしやすいところに保管されているのだう。もし夢の中で無作為にクラウドにアクセスしているとすれば、距離や時間は関係なくさまざまなところにアクセスして混線もするだろう。それが不思議な光景やストーリーとなって夢にあらわれるのかもしれない。夢の中では自分のクラウドにアクセスしたり、別次元のクラウドに飛んだり、自律的ではないが自由に往還しているということか。
また駅の夢を見た。改札を通ろうとしたらチャージが切れていて、駅員が飛んで来た。3千円チャージしたいというと、二千円しかダメだという。二千円はない(夢ではそんな理屈だった)から困っていると、先に行っていた知人のJちゃんが心配してもどって来てくれた。なぜか高校時代の同級生のFも一緒だった。とりあえずJちゃんに二千円を借りて改札をすませた。
向かった先は詩人H氏の講演会らしかった。待ち時間にロビーのようなところでハガキサイズの用紙にアンケートを頼まれた。回答を考え考えして書き込んでいると、そんなものを真面目に書いてもしょうがない、と顔見知りの女性に諭された。
会場前の待合室のようなところに入ったところで、なんとなく顔に見覚えのある男がいた。「いつかどこかで…」と声をかけると、「以前、金子みすずの朗読会をしたときですよ」と応じてきた。そんなものをした覚えはなかったが、とくに不思議にも思わなかった。
椅子に腰を下ろして待っていると服にクッキーのクズのようなものが付いていた。振り払って見回すと、集まっている全員の足元にそのクズがうずたかく積もっていた。
朝、旧友からのLINEで高校時代の担任であり、仲人をしてもらったO先生の訃報を知る。きょねんの2月7日に逝去されたという。数年前に年賀状のやり取りはやめると宣言されてから音信は不通。おからだが悪いことは知っていたので訪問も控えていた。それでもそろそろお会いしておかないと、と懸念していた矢先に逝かれてしまった。どこかでなにがしか気持ちの整理をつけなければ。
昼前に姉を送って行った広島駅から帰ると、ぐったりと疲れが出た。彼女が帰省してからの暴飲暴食のツケが一気に吹き出したようだ。
ぶっ倒れるように昼過ぎから仮眠。夕刻まで泥のように眠りながら、とりとめのない夢を見た。そのすべてを失念した。
きょうは寒の入り。ときおり晴れ間ものぞいたが、寒い一日だった。