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見た目の問題、または見る目の問題
私が生きづらかった原因は、自分の腕の赤アザ、それ自体ではありませんでした。
私についての簡単な紹介はこちら。初投稿の記事です。
私がもし無人島にいたらとか、家族やごく親しい友人たちとだけ過ごしているなら、大きなアザがあっても私は全く生きづらくなかったのです。
私がつらかったのは、他の人たちからの好奇の目、何か異物を認識した時に起きる探る目、気持ち悪いものとしてみる目、恐れている目、可哀そうという「見る側の目」によるものでした。それが無意識的な一瞬のものであっても私たち当事者は敏感に感じ取ります。
そして、不安、悲しみ、怒り、申し訳なさまで感じるのです。
例えば、学校の運動会のダンスやペアワーク、電車の座席で、こんな見た目の手を繋がなくてはいけない相手や、アザのある腕が触れてしまうような電車の座席の上で申し訳なさでいっぱいになってしまうのです。
多くの人が言う「そんなの、ほんとうに見たうちに入らないし、変わったものが目にはいったら少しは無意識で目が行ってしまう」という意見も十分に理解できます。
だからこそ難しい問題で、当事者(マイノリティー側)がだまって我慢し続けないといけないものでした。
そこまで気になって見るなら、直接これが何なのかを聞いてくれたほうが生まれつきのものであること、痛みはないもの、人に感染するようなものではないことが説明できるのでずっと楽だし、フェアだと思っています。日本人はそういったことはしないことが礼儀だとか優しさだと思っているようですが、外国に住んでいたときには、直接聞かれることが多くて、逆に隠す必要もなくなってとても気が楽でした。
それならば、見せたくなければ長袖を着ていたらいい、という単純なものではありません。今の時代の学校ではどれだけ服装の自由が認められているのか昭和生まれの私ではわからないですが、当時は学校の制服、体操着、プールの授業、すべてが例外なく同じでなくてはならず、また、日本の暑い夏の盛りに長袖を着ていることは身体的に辛いだけでなく、なぜこんな暑いのに長袖なんて着ているんだ、という指摘までいただくのです。
さらにもっと細かいことまで言えば、毎日のスーパーやコンビニでの金銭の受け渡し、窓口でペンを握って用紙に記入するときまで、このアザが他人の視線を引き付けるのです。
多少の差はあれど、黒目黒髪、背格好も同じ、行動様式もほぼ同じ島国の日本ではとにかく人と違うことがこんなにも生きづらいことであるのは、当事者のせいというよりも、この世の中の、人となにかが違うことはいけないものであるということが原因なのではないかと思うのです。
この数年は、メディアやSNS上で、いろいろなカミングアウトや表現がなされ、「普通」っていったい何なのか、何を持って美しいというのか、世の中の基準のようなものに揺さぶりが起き始めていること、そして少しずつでも変化が起きていることをとてもうれしく思っています。
はやく世の中が、異質なものに対しても優しくなり、どんな人がどんな見た目であっても、生きやすくなりますように。