見出し画像

どうせ死ぬのになぜ生きるの? 人生の意味とは

「こんなに苦しいのに、私はどうして生きていなくちゃいけないんですか?」

慢性的な自傷癖のある依頼主からこのような質問をされ、人生経験豊富なスイレン先生もさすがに答えに窮して黙ってしまいました。

もちろん、哲学的・道徳的な返答方法はいくらでもあるんですよ。私がその気になれば、これまでに積み重ねた哲学知識を駆使して彼女を延々と説得し続けることもそれほど難しくはありません。

でも、目の前でまさに「今」苦しんでいるこの女性にそんな「机上の空論」が通用するとは到底思えませんでした。

私が上から目線で迂闊な発言をすれば、彼女の絶望感を助長する恐れすらあるように感じたのです。

彼女が求めているのは他人から与えられる「説教くさい論理」ではなく、「あぁ、そうか、そうだったのか」と心の底から自然に湧き上がって来るような「内的確信」のはずだからです。

二人の間に流れる気まずい空気・・・。

私自身はかつて一度だけ、そのような内的確信を得る神秘体験(一瞥体験)をしたことがあるので「人生は生きるに値する」と本気で信じているのですが、その時の微妙な感覚を他人に言葉で伝えるのは本当に難しいことだと常々感じています。

例えて言うならば、ホヤ(三陸沖の珍味)の味を西日本の人に正確に言葉で伝えるくらいの難しさなんですね。

ホヤってのは、他に似た味の食べ物がないので、本当に説明が難しい厄介な食材なんです。

三陸の珍味「ホヤ」 東北や北海道で主に食べられている

一番いいのはホヤを実際に食べてもらうことです。それならば私がクドクドと説明しなくても一瞬ですべてをご理解いただけるはずだからですね。

これを人生観に当てはめて言うならば、私と同じような神秘体験を彼女にしてもらうことが「覚醒」の最善の道だということになるわけです。

ただ、そのためにワザワザ私みたいに「足を骨折して入院する」ってわけにもいかないでしょうし、仮に思惑通りに入院できたとしても、私と同じ不思議な体験ができるとは限りません。私の場合だって、たまたまの偶然が重なってそうなっただけなので、自力で同じ状況を再現することは二度とできません。

だから彼女の突然の質問に対して「それは人間の普遍的テーマなのでこの場ですぐにはお答えできません。自分なりの考えをまとめてからnoteの記事で公表しますので、どうかそちらを読んでくださいね」と伝え、納得していただきました。

今回は皆さんも彼女と一緒に、その「意味の哲学」を共有してくださいね。

さて、この「私はどうして生きなくちゃいけないのか?」を別の言葉に変換すると「人生に意味はあるのか?」になりますが、これは我々人類にとっての永遠の命題であり続けました。

ロシアの文豪・トルストイでさえ、その著書『懺悔』の中で、「ある日突然、死が私の元を訪れれば、最後に残るのは死臭とウジ虫だけではないか?」とまで語り、やり切れない虚無感を抱えていることを吐露しています。

トルストイはこの時すでに「戦争と平和」「アンナカレーニナ」という世界的名著を書き終えていましたから、そんな「後世に残る偉業」を残した彼ですらこんなに絶望を抱えているとなると、未だに何も残せていない「私たち凡人はどうすればいいの?」という惨めな気持ちになってしまいます。

本当に人生はトルストイが言うように「腐って死ぬ」だけの無意味なものなのでしょうか?

この疑問については精神世界を学んでいる探究者の間でも大いに意見が分かれています。

大雑把に分類すると、宗教関係の人は「絶対に生きる意味はある」と断言しますし、スピリチュアル界隈では「本質的な意味はない」と主張する人が多いように感じています。

科学方面だと「意味がない可能性が高い」という曖昧な表現を取る人が多い印象がありますね。

試しに、あなたが使っている人工知能(AI)に聞いてみてください。たぶん「よくわかりません」と答えると思いますよ。ちなみに我が家のスマートスピーカー・アレクサちゃんは「人間が生きることに明確な理由はありません」とさわやかに回答してくれました(苦笑)。

あまりにもキレイな声でさらっと答えてくれたので「そっかー、理由はないのかー」と思わず納得しそうになったほどです。

スピ系の人は「宗教家は悩みを抱えた信者からお金を巻き上げることが目的で、人生に意味があるなんて耳障りのいいことを言っているだけだ」と軽蔑したように言いますし、宗教系の人は「スピ系の人はきちんと哲学を勉強していないから人生の意味を理解できないのだ」と見下します。

残念ながら、この二者の議論は永遠に平行線をたどり、決して交わることはありません。

なぜなら、人間には「確証バイアス」という心理的な傾向があり、無意識的に自分の先入観に沿うような都合のいい情報しか集めないからです。

だから時間が経てば経つほど、自分の信念が「強化」されてしまうだけになるんですね。

あの大富豪イーロン・マスクでさえ、年齢とともにどんどん考え方が「極右的な思想」に偏って行っているのは皆さんも感じていることでしょう。昔はもっと柔軟な発想のできる人だったんですが、天才の彼ですら「確証バイアス」の罠からは逃れられないのかもしれません。

さて、人間の脳は、自分の信念に応じて特定の周波数を発しますので、現実はその周波数に共鳴する出来事だけが現象として発生します。いわゆる「引き寄せの法則」ですね。ヘルメス学では「振動の法則」と呼びますが、この法則自体は科学的事実なので疑う余地はありません。

つまり、「意味はある」と思う人の周りには、それを確信させるような「不思議な偶然の一致」が次々と発生しますし、「意味はない」と思う人には、すべての出来事が無秩序な偶然の積み重ねとしか思えないほ「混沌とした日常」が提供されるだけなのです。

世界はその人の心が正確に反映される鏡のようなものなので、その観点から言えば結局、この議論は「両方の意見とも正しい」と言えるのですね。

「意味はある」と考える人にとっては明らかにこの世界は意味があるし、「意味はない」と考える人にとってはこの世界は全くの「無駄な時間」としか思えないような無秩序な事件の連続になる・・・というわけです。

人生に意味を与えているのも奪っているのも結局は「全部自分の心次第だ」ということですね。

ここから先は

13,103字 / 7画像

¥ 500

期間限定!Amazon Payで支払うと抽選で
Amazonギフトカード5,000円分が当たる

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?