ヨシュア記
『旧約聖書』には時折、現代の道徳観からすると強烈な描写や、理解が難しい行動が登場する。その中でも「アイの攻略」の話は特に際立っている。イスラエルの神は、イスラエル人に対して略奪を禁じているが、同時に「主のもの」である銀や金、青銅と鉄の器については奪い取ることを許している。これに対する現代的な解釈は非常に複雑だ。神の命令と、物質的価値に対する古代の宗教的・社会的観念が交錯していると言える。
まず、金や銀が特別視される理由は、古代世界では通貨としての価値が非常に高かったからだ。こうした貴金属は、当時の経済における富の象徴であり、また宗教的にも重要な役割を果たしていた。神殿の装飾や儀式にはこれらの金属が用いられることが多く、それが「主のもの」とされる所以かもしれない。興味深いのは、これが単なる物質的な価値に留まらず、支配や権力と密接に結びついている点だ。ロスチャイルド家の例を挙げると、彼らは金を蓄えることで金融システムを操り、世界的な影響力を持ったと言われる。古代においても金は同様に、神聖さと支配の象徴として重要視されたのだろう。
一方で、アカンの話はさらに重く、厳格な倫理観を突きつけてくる。アカンはアイの戦利品を不正に持ち去ったことで、彼自身だけでなく家族までもが石打ちの刑に処せられた。罪を犯した者だけでなく、その家族全体を処罰するという思想は、現代の個人主義からは狂気の沙汰に映る。しかし、古代の共同体社会では、個人と家族は密接に結びついており、罪や責任も共有されるものと考えられていた。この観念は、現代においても一部の文化や宗教で名残が見られるが、特に『旧約聖書』では極端な形で表現されることがある。
『旧約聖書』の残虐さを強調する場面は多いが、それは単なる暴力の記録ではなく、神と人間の契約や、信仰に対する絶対的な忠誠心を要求するものだ。
カナン地征服
現実的に考えると、ヨシュアによってカナンの地が完全に征服されたという歴史的な見解は、事実に基づいていないようだ。イスラエルがカナンの地を支配するのは、ダビデやソロモンの時代まで待たなければならなかった。つまり、ヨシュアがカナンを完全に征服したという話は、史実ではなく、後世の人々が時代をさかのぼって描いたものである可能性が高い。
イスラエルの民がカナンの地に定住を始めたのは確かにヨシュアの時代だっただろうが、彼らがその地に入って定住を開始しただけであり、現地の住民ともある程度共存していた者たちが多かったと推測される。しかし、イスラエルがカナン全体を支配していたとは到底考えられない。
ペリシテ人あるいはフィリスティア人(Philistines)は、古代カナン南部の地中海沿岸地域に入植した民族で、ガザ、アシュドド、アシュケロン、ガト、エクロンという5つの主要都市を中心に自治都市連合を築いた集団だ。彼らはイスラエルにとって宿敵として知られ、聖書の『士師記』や『サムエル記』で繰り返し登場している。興味深いのは、現代の「パレスチナ」という名称が、このペリシテから由来している点だ。
イエス大師
士師時代
「士師記」ほどドラマティックな歴史書はなかなかない。イスラエルの民が信仰を失い、外敵に侵略され、支配される。そして、悔い改めることで神の助けを再び得る。このパターンが何度も繰り返されるのは、まるで古代のオペラのようだ。舞台に登場するのは、イスラエルの指導者として神に選ばれた「士師」たち。彼らはリーダーであり、裁判官であり、軍事的な指揮官でもあった。だが「士師記」の面白さは、この士師たちがただの英雄ではない点にある。彼らは弱さや人間的な欠点も持っているが、神の力を通じて大きな働きを成し遂げる。
このサイクル、すなわち信仰を失い、侵略され、悔い改め、救い出されるというプロセスは、合計で7回も繰り返される。「士師記」ではそれぞれの士師が異なる敵や試練に立ち向かう。例えば、ギデオンはわずかな兵力でミディアン人を打ち破り、デボラはヤビン王の軍隊を指揮するシセラを撃退する。サムソンの物語も有名で、彼の信じられない怪力は、神との契約によって授けられたものだが、その最後は裏切りと悲劇で終わる。
このサイクルの終わりには、イスラエルが統一王国としてひとつにまとまるまでの長い道のりがある。ダビデ王やソロモン王の時代がくる前の混乱した時期、士師記はその混沌を描き出している。イスラエルの民が常に完全な信仰を保っていたわけではないが、どんなに失敗しても神は彼らを見捨てず、新たな士師を送り、平和と安定をもたらす。興味深いのは、このプロセスが「ただの歴史」ではなく、神と人間の関係そのものを象徴している点だ。
だからこそ、「士師記」は単なる歴史書ではなく、信仰の物語でもある。読者にとっては、自分たちの弱さや過ちに気づかせ、悔い改めることの重要さを教える教訓書でもあるのだ。
ユダヤ人は、自分たちの宗教を強固に守り、周囲の人々と容易に溶け込もうとしないため、強い民族意識を持っている。それゆえに、いつの時代でもトラブルが生じる。特に根本には選民思想があり、自分たちが神に選ばれた民であるという認識が強いため、他者と共存しにくいという問題がある。
イスラエル・パレスチナ問題についても同様に、パレスチナ人は自分たちの土地を取り戻そうとしている。国際社会は一般的にパレスチナ側が正当であると見なしており、彼らの苦境に対する同情が大きい。しかし、メディアは正当な報道を行っていない。特にアメリカがイスラエルを全面的に支援しているため、日本のニュースもアメリカの報道に依存しており、歪んだ情報が流されている。
イスラエルがパレスチナに対して行っている行為は、侵略行為であり国家テロだと考えられるが、報道では「侵略」という言葉を使わず、あくまで「侵攻」としている。イスラエルが戦車や戦闘機でパレスチナ住民を殺害しているのに対し、パレスチナ人が爆弾を仕掛けると「テロ」として報道される。この報道の偏りには公平性が欠けており、非常に問題だ。
さらに、イスラエルはパレスチナ人を騙し、土地を奪い取るという卑劣な手段を取っている。裁判で訴えれば詐欺と見なされるべき行為だが、イスラエルの法律や裁判官、警察までもがイスラエル側であるため、パレスチナ人にとって勝ち目はない。この状況が変わるには、第三者が公平に裁く必要があるが、現時点では実現していない。
国連では、イスラエルに対する制裁決議が何度も出されているが、アメリカが拒否権を発動するため、制裁は実行されない。国際社会の多くの国々がイスラエル制裁に賛成しているが、アメリカとイスラエルだけが反対している。この状況が続く中で、イスラエルは卑劣な行為を繰り返している。
イスラエル・パレスチナ問題を歴史的背景から見ると、旧約聖書に描かれたイスラエル人とペリシテ人の戦いに似た構図が浮かび上がる。追い出された人々が自分たちの土地を取り戻そうとする激しい戦いが繰り広げられているという点では、当時も現在も似た状況にあると言える。
サムエル記
イスラエル最初の王はサウルであり、彼は油を注がれて王となった。この「油注がれた者」という表現がヘブライ語で「メシア」を意味する。したがって、メシアとは「油注がれた者」、つまりイスラエルの王を指す。メシアという言葉には、新約聖書におけるイエスのような人類を罪から救済する救世主という意味は含まれていない。メシアはあくまで神によって選ばれた王であり、民衆が望んでいたのもイスラエルの王であって、キリスト教でいうイエスのような救世主ではなかった。
しかし、キリスト教徒たちはその点を理解していない。彼らはイエスを磔にされたイメージが強すぎるため、イスラエルの王というメシア本来の意味を見失っている。これが大きな誤解の原因である。イエスは根本的に軍人であり、旧約聖書のヨシュアのようにカナンの地に入り、イスラエルを独立させることを期待されていた。実際には、ローマの支配下にあったイスラエルは、神がメシア、すなわちイスラエルの王を送って独立させてくれると信じていた。
イエスはそのメシアとして現れたが、彼の前世はヨシュアであり、同じように軍事的な役割を果たそうとしたはずだ。しかし、キリスト教が教えるイエス像は、磔刑にかけられた救世主という全く異なるものになってしまっている。イエスは宗教家ではなく軍人であり、彼が救世主として教義を広めに来たわけではない。しかし、多くの人々はイエスを誤解しており、彼が実際に教えていた内容や立場を全く理解していない。
実際のところ、現在のキリスト教はイエスの教えではなく、パウロの宗教である。パウロがイエスの磔刑を「全人類の罪を贖うため」として教義を作り上げ、メシアを救世主に変えてしまった。イエス自身はイスラエルの王になるつもりで立ち上がったのであり、キリスト教の教義とは全く関係ない。しかし、現代の多くの人々はこの誤解に基づいてキリスト教を信じている。
ユダヤ教徒たちは、新約聖書を神の言葉として認めておらず、イエスをメシアだとも思っていない。彼らにとってメシアとはイスラエルの王になる人であり、イエスが王になろうとして磔刑にされたことから、彼を失敗した偽メシア、つまりペテン師だと考えている。だが、これを表立って言うことはなく、アメリカなどのキリスト教徒が多い国々との関係を保つために沈黙しているに過ぎない。
実際、イエスはペテン師ではなく、彼の教えは新約聖書に描かれているものとは全く異なる。新約聖書はパウロの妄想によるもので、イエスは全く別の教えを伝えていたと考えられる。イエスの本当の教えは秘密結社のものであり、彼自身もその結社員だった可能性がある。エジプトの秘教やカルト的な要素が彼の教えには含まれていたとされ、これをある程度伝えているのがフリーメイソンである。フリーメイソンの教えが、当時のイエスの教えに近いものを比較的忠実に伝えていると見られている。
現在でも、ユダヤ教徒の多くはイスラエルの王がこれから現れると信じている。イスラエルという国家は存在しているが、王はいない。彼らの考えでは、今後イスラエルが「大イスラエル王国」として拡大するという。エジプトまで広がる大イスラエル圏を作るという妄想的な計画があり、その上に王が現れるという世界観だ。
その前提として、第三次世界大戦が必要であり、ハルマゲドンが起こるとされる。また、敬虔なユダヤ教徒のうち四分の三が死ぬとも考えられている。キリスト教徒やイスラム教徒は全滅し、最終的には大イスラエルを中心に世界を統一し、ユダヤ人が支配するというシナリオだ。そして、エルサレムを中心に人々を支配する王が「メシア」だとされる。
ただし、このメシアという概念は、キリスト教での救世主とは異なる。彼らが期待しているのは、肉体を持った現実的な王であり、イエス・キリストのような存在ではない。キリスト教徒が信じるのは、イエスの再臨であり、地上でイスラエルの王になる肉体的な人間ではない。このように、ユダヤ教とキリスト教のメシア観は根本的に異なっている。
宗教を理解するためには、こうした違いをしっかりと認識することが重要だ。アメリカのキリスト教右派の多くは、イスラエルの人々の信仰を誤解しており、聖書を都合よく解釈してイスラエルを支持している。しかし、イスラエル側から見ると、キリスト教は全滅する運命にあるとされる。なぜなら、キリスト教徒は「神に選ばれた人間」ではないからだ。それでも、彼らはキリスト教徒を利用して、自分たちの国が将来世界を支配するために動いている。
シャロンという人物が、「アメリカを支配しているのは私たちだ」と公言している事例がある。イスラエル側の人間は、アメリカ人が自分たちの命令に従っていると本気で思っている。しかし、こうした発言はアメリカの支持を失う恐れがあるため、側近に止められている。それでも、イスラエルの人々は本当にそう信じているのだ。実際、キリスト教右派の多くはイスラエルを支持しているが、その背景にはイスラエルによる利用がある。キリスト教徒はイスラエルに利用され、使い終わったら滅ぼされる運命だという。
それでもキリスト教徒がイスラエルやユダヤ教を支持し続けるのか、という疑問が生じる。さらに、アメリカの牧師の多くは実はユダヤ教徒であり、キリスト教の神父や牧師ではないとされている。上層部の牧師たちは金で雇われており、ユダヤ教に都合の良い教えを広めているという。こうしてアメリカのキリスト教徒たちは騙され、イスラエルの利益のために利用されている。
アメリカのキリスト教徒は、イスラエルのために戦争に巻き込まれている。イラク戦争、湾岸戦争、アフガニスタンでの戦争など、誰が戦っているのかというと、アメリカ人のキリスト教徒たちだ。彼らはイスラエルのために戦っているにもかかわらず、イスラエル人自身は兵士としては戦っていない。イスラエルはアメリカを利用するだけ利用して、役に立たなくなったと判断すれば、アメリカを滅ぼそうとしているのだ。
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