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【ヨシュア記・士師時代・サムエル記・イエス大師】聖書・キリスト教の研究-03/#135-136


ヨシュア記

「出エジプト」の指導者モーセは、40年の歳月をかけ、紅海からヨルダン川東岸までイスラエル人を導いたが、目的の地を前にして息を引き取る。神によってその後継者に選ばれたのがヨシュアであった。イスラエルの民はこの人物のもとに再び団結するのである。
だが、この頃、すでに約束の地カナンにはほかの民族が定住し、都市を築いていた。この地へと入るためにヨシュアはこれらの先住民を征服しなければならなかった。
そこでまず必要となったのが、ヨルダン川西岸の町エリコの攻略である。まずヨシュアは、ふたりのスパイを送り込んだ。ふたりはエリコに住む娼婦ラハブの協力によって、エリコの王の捜索を逃れて無事にヨシュアのもとに戻り、町の情報を伝えることができた。
十戒を収めた契約の箱を携えて一行がヨルダン川の岸辺に向かうと、そこには水量の豊富なヨルダン川の姿があった。だが、箱を担いだ者たちが水に足を浸すと、川の水がせき止められたのだ。おかげで軍勢は難なく対岸に進むことができた。
さらに神の奇跡がイスラエルの民を助ける。神はヨシュアに告げた。
「契約の箱を先頭に、角笛を鳴らしながら無言でエリコの城壁を毎日一周しなさい。七日目、七周したら閧の声を上げなさい」
これをイスラエルの人々が実行するや、エリコを囲んでいた堅固な城壁が崩れ去り、ヨシュアの軍勢は瞬く間に、町の攻略に成功したのだった。
続いて西の都市アイの攻略も順調に進むかと思われたが、神が禁じていた盗みを働いた人間がいたために、一度敗北する。犯人がくじによってアカンであると判明すると、アカンとその家族は石打ちの刑によって処刑された。再びアイの攻略が実行されると作戦は成功、アイの住民1万2000人はことごとく殺された。
旧約聖書 ヨシュア記
6:18
「また、あなたがたは、奉納物に手を触れてはならない。奉納に当り、その奉納物をみずから取って、イスラエルの宿営を、滅ぼざるべきものとし、それを悩ますことのないためである。」
6:19
「ただし、銀と金、青銅と鉄の器は、みな主に聖なる物であるから、主の倉に携え入れなければならない。」

『図説:地図とあらすじでわかる!聖書』船本弘毅監修、青春出版社

『旧約聖書』には時折、現代の道徳観からすると強烈な描写や、理解が難しい行動が登場する。その中でも「アイの攻略」の話は特に際立っている。イスラエルの神は、イスラエル人に対して略奪を禁じているが、同時に「主のもの」である銀や金、青銅と鉄の器については奪い取ることを許している。これに対する現代的な解釈は非常に複雑だ。神の命令と、物質的価値に対する古代の宗教的・社会的観念が交錯していると言える。

まず、金や銀が特別視される理由は、古代世界では通貨としての価値が非常に高かったからだ。こうした貴金属は、当時の経済における富の象徴であり、また宗教的にも重要な役割を果たしていた。神殿の装飾や儀式にはこれらの金属が用いられることが多く、それが「主のもの」とされる所以かもしれない。興味深いのは、これが単なる物質的な価値に留まらず、支配や権力と密接に結びついている点だ。ロスチャイルド家の例を挙げると、彼らは金を蓄えることで金融システムを操り、世界的な影響力を持ったと言われる。古代においても金は同様に、神聖さと支配の象徴として重要視されたのだろう。

一方で、アカンの話はさらに重く、厳格な倫理観を突きつけてくる。アカンはアイの戦利品を不正に持ち去ったことで、彼自身だけでなく家族までもが石打ちの刑に処せられた。罪を犯した者だけでなく、その家族全体を処罰するという思想は、現代の個人主義からは狂気の沙汰に映る。しかし、古代の共同体社会では、個人と家族は密接に結びついており、罪や責任も共有されるものと考えられていた。この観念は、現代においても一部の文化や宗教で名残が見られるが、特に『旧約聖書』では極端な形で表現されることがある。

アカンはヨシュアに答えて言った。「まことに、私はイスラエルの神、主に罪を犯しました。私はこうしました。私が略奪品の中に美しいシヌアルの外套一枚、銀二百シェケル、および金の延べ棒一つを見たとき、それを欲しくなり、取りました。今、それらは私の天幕の中に隠してあり、銀はそれの下にあります。」 ヨシュアは使いをやってその天幕に走らせた。見よ、それは彼の天幕の中に隠してあり、銀もそれの下にあった。彼らはそれを天幕の中から取り出し、ヨシュアとイスラエルのすべての人々のもとに持ってきて、それを主の前に置いた。 そこでヨシュアと全イスラエルの人々はアカンを連れ、その銀、外套、金の延べ棒、彼の息子たちと娘たち、彼の牛、ろば、羊、天幕、そして彼の持ち物すべてをアコルの谷に引いて行った。 ヨシュアは言った。「なぜお前は私たちを悩ませたのか。今日、主がお前を悩ませる。」そこで全イスラエルは彼を石で打ち、彼らを火で焼いた。こうして彼らに石を投げつけた後、大きな石塚が彼の上に積み上げられた。それは今日まで残っている。それゆえ、その場所の名は「アコルの谷」と呼ばれている。

ヨシュア記 7:20-26

『旧約聖書』の残虐さを強調する場面は多いが、それは単なる暴力の記録ではなく、神と人間の契約や、信仰に対する絶対的な忠誠心を要求するものだ。

カナン地征服

モーセの死を乗り越え、ヨシュアに率いられたイスラエルの民は、ヨルダン川を越え、ついにカナンの地へとなだれ込む。神の力の前に先住民たちは次々に滅び去っていった。
エリコ、アイ両都市が攻略されたという噂を知った周辺の町は恐れおののく。
エルサレム、ヘブロン、ヤルムテ、ラキシュ、エクロンの五つの町の王は、同盟を組んでイスラエル人に対抗した。
しかし、神は常にイスラエルの味方をし、五つの町に天から石や雹を降らせる。また、戦いにおいて太陽はイスラエルの民が勝利を得るまで沈むことはなく、日没による引き分けすらかなわなかった。ついに五人の王は殺され、住民も全滅した。
なおもヨシュアに率いられたイスラエル人のカナン征服活動は
続く。北はサマリアからガリラヤまで、南はペリシテ人を破りガザの征服にも成功する。シドンやティルスといったフェニキア人の都市までは攻略できなかったものの、ヨシュアに率いられたイスラエル人たちは、乳と蜜の流れる豊かな約束の地カナンを支配下に収めることに成功したのである。それらの土地はイスラエルの民を構成する諸部族によって分けられた。
神はカナンの地を12の部族に分配する。その折、祭司職であるレビ族は、他部族の援助のもとで生活し、神のために奉仕することとなった。

『図説:地図とあらすじでわかる!聖書』船本弘毅監修、青春出版社

現実的に考えると、ヨシュアによってカナンの地が完全に征服されたという歴史的な見解は、事実に基づいていないようだ。イスラエルがカナンの地を支配するのは、ダビデやソロモンの時代まで待たなければならなかった。つまり、ヨシュアがカナンを完全に征服したという話は、史実ではなく、後世の人々が時代をさかのぼって描いたものである可能性が高い。

イスラエルの民がカナンの地に定住を始めたのは確かにヨシュアの時代だっただろうが、彼らがその地に入って定住を開始しただけであり、現地の住民ともある程度共存していた者たちが多かったと推測される。しかし、イスラエルがカナン全体を支配していたとは到底考えられない。

ペリシテ人あるいはフィリスティア人(Philistines)は、古代カナン南部の地中海沿岸地域に入植した民族で、ガザ、アシュドド、アシュケロン、ガト、エクロンという5つの主要都市を中心に自治都市連合を築いた集団だ。彼らはイスラエルにとって宿敵として知られ、聖書の『士師記』や『サムエル記』で繰り返し登場している。興味深いのは、現代の「パレスチナ」という名称が、このペリシテから由来している点だ。

イエス大師

士師時代

ヨシュアによって、約束の地カナンは征服され、戦いに明け暮れた征服の時代は終わりを告げた。
だが今度は外敵の脅威にさらされる時代が幕を開ける。彼らの土地のほとんどは、周辺を異民族に取り囲まれていたため、その領土を狙った侵略が継続的に続いていたし、イスラエル人によってカナンを追われた人々も虎視眈々こしたんたんと領土の奪還を狙っていたのだ。
軍事的な攻撃に加え、さらにイスラエル人の団結を乱す脅威となったのが、異教の存在である。安住の地を得た新しい世代のイスラエル人たちは、自分たちの神から離れて、カナン人の崇拝するバアル神のような、豊穣の神を崇めるようになっていったのだ
これは民族の解体につながる、危機的状況であった。民族の再団結が求められるようになっていたのである。

『図説:地図とあらすじでわかる!聖書』船本弘毅監修、青春出版社

「士師記」ほどドラマティックな歴史書はなかなかない。イスラエルの民が信仰を失い、外敵に侵略され、支配される。そして、悔い改めることで神の助けを再び得る。このパターンが何度も繰り返されるのは、まるで古代のオペラのようだ。舞台に登場するのは、イスラエルの指導者として神に選ばれた「士師」たち。彼らはリーダーであり、裁判官であり、軍事的な指揮官でもあった。だが「士師記」の面白さは、この士師たちがただの英雄ではない点にある。彼らは弱さや人間的な欠点も持っているが、神の力を通じて大きな働きを成し遂げる。

このサイクル、すなわち信仰を失い、侵略され、悔い改め、救い出されるというプロセスは、合計で7回も繰り返される。「士師記」ではそれぞれの士師が異なる敵や試練に立ち向かう。例えば、ギデオンはわずかな兵力でミディアン人を打ち破り、デボラはヤビン王の軍隊を指揮するシセラを撃退する。サムソンの物語も有名で、彼の信じられない怪力は、神との契約によって授けられたものだが、その最後は裏切りと悲劇で終わる。

このサイクルの終わりには、イスラエルが統一王国としてひとつにまとまるまでの長い道のりがある。ダビデ王やソロモン王の時代がくる前の混乱した時期、士師記はその混沌を描き出している。イスラエルの民が常に完全な信仰を保っていたわけではないが、どんなに失敗しても神は彼らを見捨てず、新たな士師を送り、平和と安定をもたらす。興味深いのは、このプロセスが「ただの歴史」ではなく、神と人間の関係そのものを象徴している点だ。

だからこそ、「士師記」は単なる歴史書ではなく、信仰の物語でもある。読者にとっては、自分たちの弱さや過ちに気づかせ、悔い改めることの重要さを教える教訓書でもあるのだ。

ユダヤ人は、自分たちの宗教を強固に守り、周囲の人々と容易に溶け込もうとしないため、強い民族意識を持っている。それゆえに、いつの時代でもトラブルが生じる。特に根本には選民思想があり、自分たちが神に選ばれた民であるという認識が強いため、他者と共存しにくいという問題がある。

イスラエル・パレスチナ問題についても同様に、パレスチナ人は自分たちの土地を取り戻そうとしている。国際社会は一般的にパレスチナ側が正当であると見なしており、彼らの苦境に対する同情が大きい。しかし、メディアは正当な報道を行っていない。特にアメリカがイスラエルを全面的に支援しているため、日本のニュースもアメリカの報道に依存しており、歪んだ情報が流されている。

イスラエルがパレスチナに対して行っている行為は、侵略行為であり国家テロだと考えられるが、報道では「侵略」という言葉を使わず、あくまで「侵攻」としている。イスラエルが戦車や戦闘機でパレスチナ住民を殺害しているのに対し、パレスチナ人が爆弾を仕掛けると「テロ」として報道される。この報道の偏りには公平性が欠けており、非常に問題だ。

さらに、イスラエルはパレスチナ人を騙し、土地を奪い取るという卑劣な手段を取っている。裁判で訴えれば詐欺と見なされるべき行為だが、イスラエルの法律や裁判官、警察までもがイスラエル側であるため、パレスチナ人にとって勝ち目はない。この状況が変わるには、第三者が公平に裁く必要があるが、現時点では実現していない。

国連では、イスラエルに対する制裁決議が何度も出されているが、アメリカが拒否権を発動するため、制裁は実行されない。国際社会の多くの国々がイスラエル制裁に賛成しているが、アメリカとイスラエルだけが反対している。この状況が続く中で、イスラエルは卑劣な行為を繰り返している。

イスラエル・パレスチナ問題を歴史的背景から見ると、旧約聖書に描かれたイスラエル人とペリシテ人の戦いに似た構図が浮かび上がる。追い出された人々が自分たちの土地を取り戻そうとする激しい戦いが繰り広げられているという点では、当時も現在も似た状況にあると言える。

イスラエル人が神ヤハウェに背く行為は、神から見放されることを意味したという。神の加護を失ったイスラエル人は、敵国に侵略され、支配されるようになるのである。
異民族支配のもと、やがて人々が自らの過ちに気付き、悔い改める。民が再び神を崇めるようになると、神は士師を遣わして彼らを救う。
士師とは、戦争のために兵士を集める強いカリスマ性を備え、戦術に長けていた人々のことである。実際には異民族の支配に抵抗した地方の実力者であったようだ。
このような外敵による侵略と支配の時代と、これらを撃退し士師によってもたらされる平和の時代が繰り返された時代を士師時代という。このサイクルは、ヨシュアという偉大な指導者の死から、サウルがイスラエル統一王国を築くまでの間に、実に7回にわたって繰り返されることとなる。

『図説:地図とあらすじでわかる!聖書』船本弘毅監修、青春出版社

サムエル記

レビ族のエルカナとハンナの間に生まれたサムエルは、シロの神殿の祭司エリのもとに預けられる。このエリには司祭を務めるふたりの息子がいたが、いずれも律法の義務を怠り、職権を濫用して私服を肥やしていた。
この頃のイスラエルはペリシテ人によって苦しめられる日々を送っていた。鉄製の武器を手にする彼らの前に、イスラエル人は敗走するばかりだったのだ。そこで人々は、先人ヨシュアに習い「契約の箱」を押し立てて戦うことにする。しかしこの作戦は、ペリシテ人の戦意をより高める結果になり、箱の力にすがるイスラエル人は敗れる。エリのふたりの息子は殺され、「契約の箱」はペリシテ人たちによって奪い去られてしまう。「契約の箱」と息子を同時に失ったエリは、そのショックで倒れた際、頭を打って死ぬ。神がサムエルに告げたとおりになったのだ。
一方、「契約の箱」を奪ったペリシテ人には次々と不気味な出来事が起こる。イスラエルの神の仕業と畏れたペリシテ人は、箱をイスラエル人のもとへと返した。7か月ぶりに「契約の箱」がイスラエル人のもとに戻った時、サムエルは新しい指導者となっていた。
やがて40年の月日が過ぎ去り、サムエルの体が衰え始めると、民は王を求め始めた。その頃、ベニヤミン族には、美しく背の高い青年サウルがいた。サウルはある日、近くに名高い預言者サムエルがいることを知るや、すぐさま会いに向かう。
この時すでにサムエルはサウルが来ることを知っていた。前夜、神が彼に語りかけていたのである。「明日の夕暮れにベニヤミン族の男を遣わそう。その男の額に聖なる油を注ぎなさい」。『油を注がれた者』、つまりヘブライ語の「メシア」……。サウルこそ王として神が選んだ者だったのだ。

『図説:地図とあらすじでわかる!聖書』船本弘毅監修、青春出版社

イスラエル最初の王はサウルであり、彼は油を注がれて王となった。この「油注がれた者」という表現がヘブライ語で「メシア」を意味する。したがって、メシアとは「油注がれた者」、つまりイスラエルの王を指す。メシアという言葉には、新約聖書におけるイエスのような人類を罪から救済する救世主という意味は含まれていない。メシアはあくまで神によって選ばれた王であり、民衆が望んでいたのもイスラエルの王であって、キリスト教でいうイエスのような救世主ではなかった。

しかし、キリスト教徒たちはその点を理解していない。彼らはイエスを磔にされたイメージが強すぎるため、イスラエルの王というメシア本来の意味を見失っている。これが大きな誤解の原因である。イエスは根本的に軍人であり、旧約聖書のヨシュアのようにカナンの地に入り、イスラエルを独立させることを期待されていた。実際には、ローマの支配下にあったイスラエルは、神がメシア、すなわちイスラエルの王を送って独立させてくれると信じていた。

イエスはそのメシアとして現れたが、彼の前世はヨシュアであり、同じように軍事的な役割を果たそうとしたはずだ。しかし、キリスト教が教えるイエス像は、磔刑にかけられた救世主という全く異なるものになってしまっている。イエスは宗教家ではなく軍人であり、彼が救世主として教義を広めに来たわけではない。しかし、多くの人々はイエスを誤解しており、彼が実際に教えていた内容や立場を全く理解していない。

実際のところ、現在のキリスト教はイエスの教えではなく、パウロの宗教である。パウロがイエスの磔刑を「全人類の罪を贖うため」として教義を作り上げ、メシアを救世主に変えてしまった。イエス自身はイスラエルの王になるつもりで立ち上がったのであり、キリスト教の教義とは全く関係ない。しかし、現代の多くの人々はこの誤解に基づいてキリスト教を信じている。

ユダヤ教徒たちは、新約聖書を神の言葉として認めておらず、イエスをメシアだとも思っていない。彼らにとってメシアとはイスラエルの王になる人であり、イエスが王になろうとして磔刑にされたことから、彼を失敗した偽メシア、つまりペテン師だと考えている。だが、これを表立って言うことはなく、アメリカなどのキリスト教徒が多い国々との関係を保つために沈黙しているに過ぎない。

実際、イエスはペテン師ではなく、彼の教えは新約聖書に描かれているものとは全く異なる。新約聖書はパウロの妄想によるもので、イエスは全く別の教えを伝えていたと考えられる。イエスの本当の教えは秘密結社のものであり、彼自身もその結社員だった可能性がある。エジプトの秘教やカルト的な要素が彼の教えには含まれていたとされ、これをある程度伝えているのがフリーメイソンである。フリーメイソンの教えが、当時のイエスの教えに近いものを比較的忠実に伝えていると見られている。

王となったサウルは神の加護のもと、民を率いて勝利を収めていく。しかし、次第に自らが至高の存在であるかのように考え始めてしまう。サムエルの「本当の王は神であることを肝に銘じておくように」という忠告を忘れていたのである。神は失望するサムエルに告げた。「もはやサウルはイスラエルの王ではない」。
新しく神から王に指名されたのはダビデ。ダビデが活躍し人気を得ていくのは、ただサウルの嫉妬心を膨らませるばかり。彼はダビデの命を狙うようになるのである。
加えてペリシテ人の脅威の前に、恐怖し続ける彼を絶望が襲う。霊媒師にサムエルの亡霊を呼ばせてそれにすがるが、サウルはもう神の許しを得ることはできなかった。
失意のサウルは、ギルボア山でペリシテ人と戦い、傷を負う。そして、捕虜になるのをよしとせず、自ら命を絶つのであった。

『図説:地図とあらすじでわかる!聖書』船本弘毅監修、青春出版社

7 それでサウルは家来たちに言った。「霊媒をする女を尋ね出してくれ。彼女のところへ行って尋ねよう。」家来たちは彼に言った。「実は、エンドルに霊媒をする女がいます。」
8 それでサウルは変装し、他の服を着て、二人の者を連れて出かけ、その女のところへやって来た。夜であった。サウルは、「どうか、霊媒によって私のために霊を呼び出し、私が言う者を上らせてくれ」と言った。
9 しかし女は言った。「確かにあなたがご存じのように、サウルは、口寄せや占い師をこの国から絶ち滅ぼしました。なぜ、私の命をわなにかけて殺そうとするのですか。」
10 サウルは主を指して彼女に誓って言った。「主は生きておられる。あなたにこのことで罪が及ぶことは決してない。」
11 女が「では、だれを呼び出しましょうか」と言うと、彼は、「サムエルを呼び出してくれ」と言った。
12 女がサムエルを見るやいなや、大声で叫び、サウルに言った。「あなたは何ということをしましたか。あなたはサウルです。」
13 王は彼女に言った。「恐れるな。あなたは何を見たのか。」女はサウルに言った。「私は神のような者が地から上ってくるのを見ました。」
14 サウルが「どんな姿か」と言うと、彼女は、「年老いた人が上ってきます。彼は上着をまとっています」と言った。サウルはそれがサムエルだと分かり、地にひれ伏して礼をした。
15 サムエルはサウルに言った。「なぜ、あなたは私を呼び出して、私を悩ませるのか。」サウルは言った。「私は非常に苦しんでいます。ペリシテ人が私に戦いを仕掛けていますが、神は私を離れ、もはや預言者によっても夢によっても私にお告げになりません。それで、私はあなたを呼び出しました。私に何をすべきか教えてください。」
16 サムエルは言った。「主はあなたを離れ、あなたの敵となったのです。なぜ、あなたは私に尋ねるのですか。
17 主は、私によって告げられたとおりのことを行われました。主は、あなたの手から王国を引き裂き、あなたの隣人ダビデにそれをお与えになりました。
18 あなたが主の御声に聞き従わず、主の燃える怒りをアマレクに向けなかったためです。それゆえ、主は今日このことをあなたにされたのです。
19 さらに主は、イスラエルを、あなたとともに、ペリシテ人の手に渡されます。明日、あなたとあなたの息子たちは私のところに来ます。主はイスラエルの軍勢をペリシテ人の手に渡されます。」
20 サウルは、サムエルの言葉を聞くや否や、地面にまっすぐに倒れました。彼は非常に恐れていたのです。その上、彼はその日、何も食べていなかったため、力も尽き果てていました。

サムエル記上 28:7-20

英雄王ダビデ―イスラエルを統一したメシアの理想像
彼は詩を作ることを得意とするほか、音楽の才能にも長けており、悪霊に悩まされるサウルを竪琴の音で慰めてもいる。才能豊かなダビデは宮廷でたちまち人気を集めた。サウルの息子ヨナタンは彼の親友となり、娘のミカルは彼に好意を抱くようになる。
ダビデの名声をさらに高めたのが、ペリシテの巨人ゴリアテとの戦いだ。鎧もつけず投石器だけでゴリアテを倒したのである。彼はこの勝利によってミカルを妻にした。
だがやがてダビデは、その豊かな才能に嫉妬した義父サウルに命を狙われるようになる。サウルの宮廷から逃げ出したダビデは兵士を集め、ついに傭兵指揮者となった。ついにはイスラエルの敵ペリシテの地に避難することでサウルの追跡から身をかわしたのだった。
ダビデは私兵を率いてペリシテ側に従っていたが、サウルが戦死するギルボア山の戦いには参加しておらず、幸いなことにイスラエル人を攻撃することは免れた。
サウルの死後、王国は南北に分裂する。こうしたなか、ペリシテの地にあって着実に他民族との間に信頼関係を築き上げていたダビデはヘブロンに赴き、南部地方の王となる。さらに数年後、北部地方の王権もゆだねられた。こうして両王国がダビデの統治するところとなり、国家連合体が成立する。そしてペリシテ人も2回の決戦で撃破。王国の首都はエルサレムに定められ、「ダビデの町」と呼ばれた。
しかし、ダビデも先王と同じく重大な罪を犯す。将軍ウリヤの妻バト・シェバに姦通を働いたのだ。彼女が妊娠したことを知るや、罪を逃れるために実の夫の子であると見せかけようと企む。さらにこれに失敗すると夫を激戦地に送り込み、戦死させてしまうのである。
この報いは晩年のダビデと彼の子どもたちに降りかかった。
ダビデは後世の王の模範、象徴として名を残すことになった。聖俗両面の権勢を掌握するメシアの祖となったのである。その死から約400年後に王朝が崩壊しても、人々は理想の王としてその再来を待望するなど、大きな影響を与え続けていくのである。

『図説:地図とあらすじでわかる!聖書』船本弘毅監修、青春出版社

現在でも、ユダヤ教徒の多くはイスラエルの王がこれから現れると信じている。イスラエルという国家は存在しているが、王はいない。彼らの考えでは、今後イスラエルが「大イスラエル王国」として拡大するという。エジプトまで広がる大イスラエル圏を作るという妄想的な計画があり、その上に王が現れるという世界観だ。

その前提として、第三次世界大戦が必要であり、ハルマゲドンが起こるとされる。また、敬虔なユダヤ教徒のうち四分の三が死ぬとも考えられている。キリスト教徒やイスラム教徒は全滅し、最終的には大イスラエルを中心に世界を統一し、ユダヤ人が支配するというシナリオだ。そして、エルサレムを中心に人々を支配する王が「メシア」だとされる。

ただし、このメシアという概念は、キリスト教での救世主とは異なる。彼らが期待しているのは、肉体を持った現実的な王であり、イエス・キリストのような存在ではない。キリスト教徒が信じるのは、イエスの再臨であり、地上でイスラエルの王になる肉体的な人間ではない。このように、ユダヤ教とキリスト教のメシア観は根本的に異なっている。

宗教を理解するためには、こうした違いをしっかりと認識することが重要だ。アメリカのキリスト教右派の多くは、イスラエルの人々の信仰を誤解しており、聖書を都合よく解釈してイスラエルを支持している。しかし、イスラエル側から見ると、キリスト教は全滅する運命にあるとされる。なぜなら、キリスト教徒は「神に選ばれた人間」ではないからだ。それでも、彼らはキリスト教徒を利用して、自分たちの国が将来世界を支配するために動いている。

シャロンという人物が、「アメリカを支配しているのは私たちだ」と公言している事例がある。イスラエル側の人間は、アメリカ人が自分たちの命令に従っていると本気で思っている。しかし、こうした発言はアメリカの支持を失う恐れがあるため、側近に止められている。それでも、イスラエルの人々は本当にそう信じているのだ。実際、キリスト教右派の多くはイスラエルを支持しているが、その背景にはイスラエルによる利用がある。キリスト教徒はイスラエルに利用され、使い終わったら滅ぼされる運命だという。

それでもキリスト教徒がイスラエルやユダヤ教を支持し続けるのか、という疑問が生じる。さらに、アメリカの牧師の多くは実はユダヤ教徒であり、キリスト教の神父や牧師ではないとされている。上層部の牧師たちは金で雇われており、ユダヤ教に都合の良い教えを広めているという。こうしてアメリカのキリスト教徒たちは騙され、イスラエルの利益のために利用されている。

アメリカのキリスト教徒は、イスラエルのために戦争に巻き込まれている。イラク戦争、湾岸戦争、アフガニスタンでの戦争など、誰が戦っているのかというと、アメリカ人のキリスト教徒たちだ。彼らはイスラエルのために戦っているにもかかわらず、イスラエル人自身は兵士としては戦っていない。イスラエルはアメリカを利用するだけ利用して、役に立たなくなったと判断すれば、アメリカを滅ぼそうとしているのだ。

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