無駄な努力をしないで幸せになる方法 占星術的運命論
当たり前の話ですが、私のような占星術師は「この世には運命というモノが厳然として存在し、人間の人生を縛っている」という大前提の元に活動していますので、「引き寄せの法則」を信奉する精神世界系の人々や、「自助努力によって己の人生を切り開かねばならない」と声高に主張する自己啓発系の人たちから目のカタキにされやすい傾向があります。
彼らにとって人生とは「何も描かれていない真っ白いキャンバス」のようなものでなければならず、そこに「運命」という下絵が書き込まれていること自体が「許しがたい」ことだからです。
「念ずれば花開く」「努力は人を裏切らない」・・・どちらも人の心を惹きつけて止まない美しい言葉ですが、これは「一面の真実」であって、この宇宙のすべてを貫く「唯一無二の絶対法則」ではありません。
私も彼らも「人々を幸福にしたい」あるいは「自分自身の人生を意味あるものにしたい」という共通の目的で行動しているにもかかわらず、どうしてこのような意見の対立が生じてしまうのでしょうか?
「運命論」と「自助論」の一番の大きな違いは「人生のスタート地点」の設定方法です。
引き寄せ信奉者や、努力信仰の人たちにとっての人生とは「生まれた瞬間」からすべてが始まります。この誕生の瞬間こそが、伸るか反るかの「弱肉強食の競争社会」の唯一のスタートラインになるんですね。
ところが、我々占星術師が扱う人間の人生とは「この世に生まれる遥か数千年前」からとっくに始まっており、今の人生は「ひとつの途中経過でしかない」と見るのです。つまり「輪廻による魂の連続性」を前提にして人生哲学が構築されているのですね。
この「スタート位置の決定的な違い」が私たちの意見に決定的な断絶を生んでいるわけです。
確かに「物事を前向きに考えること」や「日々努力すること」には大きな価値がありますが、その行動の成果については「過去からの長い積み重ね」によって決まりますので、今回の人生の「一夜漬けの努力」だけでは、それほど大きな結果は望めないのです。
まず、現実問題として人間の「生まれつきの才能」には大きなバラツキがありますよね?生まれつき運動能力に優れている人もいれば、突出した芸術的な才能に恵まれている人もいます。
私たちが幼少の頃からどんなに努力してもメッシのようなサッカー選手にはなれませんし、草間彌生みたいな奇抜な芸術作品も創れません。一生を捧げても無理ですよね?
だからと言って彼らが「神様にえこひいきされている幸運な人」というわけではありません。彼らには「前世や前々世から続く努力の積み重ね」があり、たまたま今回の人生がその努力の「収穫期」に当たっているだけかもしれないからです。
ひょっとすると草間彌生は「千年前からアーティストだった」かもしれませんよね?(笑)。
先天的な「ギフト」で一番顕著なのが「音楽的才能」で、職業音楽家の92パーセントは「親が音楽関係の仕事をしている人」だと言われています。例えば、宇多田ヒカルの母親は歌手の藤圭子、平原綾香の父親は有名なサックス奏者の平原まことさんですが、彼女たちが親から「素晴らしい音楽的才能の遺伝子」を受け継いだということについて疑いの余地はないですよね?
宇多田ヒカルなんて15歳でいきなりミリオンセラーですから、「幼い頃からの努力」だけではその突出した才能に説明がつきません。
人間の音楽的才能については遺伝子がほぼ決定的な役割を担っていて、音楽に向いた遺伝子が備わっていない凡人が2万時間に及ぶ猛烈な練習をしたとしても何の成果も出せない・・・という身も蓋もない話がスウェーデンのカロリンスカ研究所によって発表されているほどです。
だから、才能に恵まれた一卵性の双子であれば「練習時間が長くても短くても、どちらの兄弟も音楽業界で同じぐらい成功する」のだそうです。つまり、音楽に関しては「数十年の努力」よりも「遺伝子」のほうが優位に働くことが科学の世界ではとっくの昔に証明されているわけですね。
でもこれは「彼らが親からタダで優秀な遺伝子を受け継いだだけのラッキーな人」という意味ではありません。彼らの音楽的な才能は過去数千年に及ぶ長い努力の末に獲得されたものであり、その才能を現世でスムーズに表現させるために「音楽家の家系に生まれるように運命がコーディネートした」のです。つまり彼らが「音楽家の子ども」に生まれたのはすべて「運命によって仕組まれたこと」なのです。
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