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私は誰だったのか? 遥かなる過去への旅
何のために生まれて 何をして生きるのか? 答えられないなんて そんなのは嫌だ
これは「アンパンマンのマーチ」の一節です。東日本大震災発生直後、FMラジオに最も多くリクエストが寄せられた曲としても知られていますよね?
「人は何のためにこの世に生まれるのか?」 これはアンパンマンの原作者の「やなせたかし」さんが、学徒出陣で戦地に送られていた弟が「戦死したぞ」と親戚から告げられた時に思わずその場でつぶやいた言葉だと言われています。若い頃のそんな苦い記憶を数十年後に自分の作品の中にこっそりと潜り込ませたんですね。まるで弟を供養するかのように・・・。
弟の千尋さんは特攻隊(人間魚雷)に志願していましたが、任務地に行く途中、フィリピン沖で輸送船が敵の攻撃を受け、他の乗組員ともども海に沈んだのだそうです。だからお墓には遺骨もないんですよ。
父親と早くに死に別れ、別の男性と再婚した母親は幼い兄弟を捨てて家を出て行きました。そんな過酷な境遇の中で兄弟二人で力を合わせて生きて来たやなせにとって「弟の死の知らせ」はどれほど強い悲しみだったかは想像に難くありません。
預けられた叔父が医者だったため、「きっとお母さんは、僕たちが病気がちだから医者の叔父さんに預けたんだ。健康になればきっと帰って来てくれる」と解釈した兄弟は、来る日も来る日も体を鍛えていたそうです。おかげで中学に上がる頃には二人とも丈夫な体になりましたが、母親が兄弟を迎えに来ることはついぞありませんでした。
そんな不遇と理不尽さの中で、やなせたかしが思わず絞り出した言葉が「人は何のために生まれ、何をして生きるのか?」なのです。
それは彼だけでなく、我々すべての人間にとっての究極の問いであり、多かれ少なかれ誰もが心に抱えている根源的な疑問ではないでしょうか?
現代の物質主義者のように「人生に意味なんてない。すべては偶然の産物に過ぎないのだから今を楽しめば良い」というのも一つの模範的回答でしょうし、キリスト教徒のように「神に認められて天国に行くことこそが人生の目標」というのも、本人が心から信じているのであれば、それはそれで正しいのかもしれません。
ただ、私はそのような曖昧な回答では納得できないタイプの人間なので、どうしても「心から腹落ちできる答え」を求めてしまうのです。
答えを知る一つの方法として、私は「前世の自分の生き様を知る」ことが有効であると考えています。
人間は「一度生まれて、死ねばそれですべてが終わり」ではありません。私たちの壮大な人生の物語は、遥かなる過去から続いており、そしてこれからもずっと続いて行くものなのです。今の私たちの人生は、長編小説の「一つの章」に過ぎないんですね。
音楽家として華々しい活躍をしている人は、前世においても音楽を学んでいた可能性が高いですし、将棋の名人は前世においても「棋士」だったかもしれません。「神の一手」を極めようとするプロ棋士が、一回の人生だけでその「究極の境地」に達するとは思えません。
前世のあなたがドコの誰で、何をして暮らしていた人なのか。どんな夢を持ち、どんな後悔を残して死んだ人なのか・・・・それさえ分かれば「今の自分」が何をするべきかも自ずと明らかになるはずです。そうではないでしょうか?
前世において孤独な人生を送った人であれば、「結婚して家族を作ること」が最優先の目標になるでしょうし、軍人として大勢を殺めてしまった人であれば、「医者になって人々を命を救うこと」が新たな人生目標になるかもしれません。
自動ドアや魚群探知機、自動炊飯器、エレキギター、うそ発見器などを発明したことで有名な「政木和三」工学博士(すでに故人)は、江戸時代の陽明学者「熊沢蕃山」だった頃の記憶を持っていたそうです。
彼の偉大な業績の多くは「前世から引き継いでいる豊富な知識」によってもたらされたものなのですね。この例でも分かるように、本人の努力によって獲得した知識や技術はそのまま「次の人生」にも引き継がれ、私たちの人生の物語はずっと続いて行くわけです。
要するに「努力は何一つ無駄にならない」のですね。
モーツァルトが5歳でピアノコンチェルトを作曲できたのも、それ以前の「数百年の積み重ね」があったからこそであり、ただの「ラッキー」で特別な才能を手に入れたわけではありません。
2カ月ぶりの更新で、いきなりこんなオカルトっぽい話をしてるので「スイレンさんは忙し過ぎて頭がどうかしたんじゃないか?」と思う方もいるでしょうが、私はこの2カ月の間に「前世の自分」だったかもしれない人物についての調査・研究に奔走していたんです。過去の自分の「栄光と挫折」を知ることで、今の自分が具体的に「何を為すべきか」が明らかになると感じた私は、まるで憑りつかれたように「過去の自分探し」に没頭していたんですね。
一般の方であれば「退行催眠(前世療法)」を受けるのが手っ取り早い方法だと思います。知人に腕のいいヒプノセラピストがいますので、ご興味がある方にはご紹介させていただきますよ。
ただ、私のように「理屈で納得できないことは信じない」というガチガチの石頭タイプには退行催眠はあまり有効ではありません。私が求めるのは「検証可能な物的証拠」であって、白昼夢みたいなボンヤリとした「記憶」ではないからです。
私の前世探究の始まりは2年前に遡ります。
当時1歳だった息子を抱っこして自宅前の階段を降りている途中、私は階段から足を踏み外して転落し、右足首と腓骨を骨折しました。子供を抱っこしてると自分の足元って見えないんですよね(苦笑)。
階段を落下しながらも「息子を守らなければっ!」と本能的に感じた私は、両腕で息子を抱え込み、そのぶん自分の身体を一切防御できずに、かなり不自然な格好で下まで落ちてしまいました。幸い、息子は無傷でしたが、私の右足首はあさっての方向に曲がってしまい、見る見る間に腫れあがって救急搬送されることになりました。
救急車に運び込まれる私を見て、息子がニコニコしながら「パパ、バイバーイ」と手を振っていたのが印象的です。救急隊員と遊んでいるように見えたのかもしれません。
二日後に緊急手術となり、生まれて初めて麻酔を打たれました。足首周りの3カ所を切開され、金属ボルトを3本埋め込まれたんです。幸い、手術自体は成功したのですが、その晩の10時ごろに麻酔が切れた私は、かつて経験したことのない激しい痛みに歯を食いしばって耐えながら、一睡もできずに翌朝を迎えることになりました。あまりの痛みに何度もナースコールで看護師さんを呼ぶのですが、「明日の朝、執刀医の先生が来るまでは我慢してもらえますか?」と冷たく言われ、全く相手にされません。
もう痛み以外に何も考えられない状態になり、ある意味で私は「究極の一点集中状態」に達したのです。
地獄のような一晩を過ごした後、東側の窓際のベッドだったので、朝5時過ぎにゆっくりと地平線から昇って来る朝日が見えました。その瞬間、あれほど激しかった痛みが突然消え、「この世界と私は一つであり、私という個人は存在しない」という不思議な感覚に包まれたのです。
痛みが完全に消えたことから考えると、何らかの脳内ホルモンが大量に分泌されていたのだと思いますが、「何かとても大切なことを理解した」という確信めいたものが胸に溢れて来たのです。言葉にすると陳腐になるので表現しづらいのですが、「運命はあらかじめ決まっており、すべての事象が完璧に進行している」と心の底から思えたのです。
その感覚はそれほど長続きしませんでしたが、その日を境に私は、「ある夢」を繰り返し見るようになりました。
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