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今、この瞬間に幸せになる
人は、星の影響力と、自分自身の持つカルマが数学的に一致したその日、その時、その場所に必然として生まれ落ちる
これはインドの大聖者スリ・ユクテスワの言葉ですが、インド占星術の基本となる考え方です。この精密なカルマシステムがあるからこそ、生まれの日時と場所から、その人が先天的に持つ運命を逆算することができるんですね。
多くの人は、自分がその年、その日、その町、その両親のもとに生まれたのを「たまたまの偶然」だと思っているはずです。きっとあなたもそうですよね?
別に自分が「ぜひこの町に生まれたいっ!」と望んだわけではないし、ましてや親に「私を産んでください」と頼んだわけでもありません。少なくとも、あなたにそんな記憶はないはずです。
すべての事象は自分の意志とは関係ないところで勝手に決定されていると思い込み、だから恵まれた境遇に生まれた他人と比べて「私は大いに損をしている」と不満を感じてしまうのです。
「親ガチャに失敗した」なんて安っぽい言葉が口を突いて出て来るのも、そんな不満の表れの一つと言えるでしょう。
親ガチャとは、コインを入れて回すとカプセル玩具が出て来るガチャポンのように「どんな才能や生活環境を与えられるかは全くの偶然によって決まる」というような受動的意味を含んでいます。でも、本当にそうなのでしょうか?
一つだけハッキリしていることがあるとすれば「親ガチャ」を口にする人たちは、ほぼ100パーセントの確率で「今の自分には足りないものがある」という不足感を抱えていることです。満たされた精神状態にある人間がそんな「カッコ悪い泣き言」を平然と人前で話すことは絶対にあり得ないからですね。
インド哲学の考え方からすると、今のあなたの生活環境は、あなた自身が前世で積み上げた「カルマ」によって必然的に決定されているのですから、「生まれの環境が悪い」のは、そのまま「前世の自分のおこないが悪かった」という可能性を示唆しています。つまり「運が悪い」のではなく、「前世のあなたが生き方が悪い」んですね。
もちろん、「精神的な鍛練をするために、敢えて過酷な環境を選んだ」という高潔な魂もいるので一概には言えませんが、少なくとも「神さまの気まぐれ」で貧乏な家庭環境に生まれたわけではなく、すべてはそうなるだけの「明確な理由」があってそうなっていることだけは理解しておかなければなりません。
それこそ、ガチャポンでどんな玩具が出て来るのかすらも「カルマ」によって明確に決められているのですから、確率論的な偶然なんてものはこの世に「何一つ存在しない」のが真実なのですね。
ましてや、「どんな親の元に生まれるのか」という、人生の方向性を左右するような重大な案件が偶然によって決まることは絶対になく、その親はあなたにとって「前世からの縁が深い人」か、「あなたが与えられている天命を果たすのにどうしての必要な人材」かのどちらかでしかあり得ないのです。
つまり、あなたは「いるべきところにいて、出会うべき人と出会い、持つべきものをすでに持っている」のです。この条件に例外は存在しません。
最近の「行動遺伝学」という学問分野の研究によると、音楽的才能は9割が親やご先祖様からの遺伝によって決まり、美術的才能は5割、執筆は8割、スポーツは8割だそうです。
実際、モーツァルトは父親は音楽家でしたし、岡本太郎は父親が漫画家で、母親は歌人、祖父は書道家という芸術一家でした。
要するに、音楽家になる運命の人は、音楽関係者の家に生まれることが多いし、スポーツ選手になる運命を背負った人は、親もスポーツ選手であることが多い・・・・というわけです。
目に見える現象だけ見ると「あいつらだけズルい」と感じるかもしれませんが、彼らは前世で積み上げたカルマによって「特別な才能を先天的に授けられる」ことが最初に決まっており、それにふさわしい遺伝情報を持つ親御さんの元に「運命の必然」として生まれて来るのです。
このカルマシステムに「ズル」や「えこひいき」は一切ありませんので、彼らは正当な手段で「先天的な才能」を手に入れただけなんですね。
でも、才能があれば必ず幸せになれるというものではないんですよ。継続的な幸福感を維持するためには「運命に与えられたシナリオを受容する覚悟」が必要です。
別な言葉で言い換えると「天命を生きる」ということです。
「特別な才能がある」というのは同時に「それを使って人類に貢献しなければならない」という義務とセットになっていることが多いのです。要するに、幸せになりたければ誰もが「神の定めた壮大な舞台劇」に役者として参加しなくてはいけないんですね。
もし親と仲が悪いというのならば、それは「前世でこじれてしまった人間関係を修復すること」がその人の主要テーマとして与えられている可能性がありますし、「生まれの家が貧乏だった」のであれば、それは野口英世みたいに「裸一貫から大出世する感動を味わうため」の効果的な舞台装置かもしれません。
「親にお金がない」というのは、「自立してお金を稼いだ時の感動が一般の人よりも大きくなる可能性が高い」ということです。だから貧乏は決して不利な条件ではないんですよ。
ひとつ分かりやすい実例を挙げてみましょう。
大抵の赤ちゃんは「いないいないばあっ!」をすると大喜びしますよね?それこそ、身をよじってキャッキャッと笑う子もいます。
いないいないばあっ!とは、お母さんが手で顔を隠しながら(体ごと隠す場合もあります)「いないいない」と言い、最後に「ばぁ!」で顔を見せる世界共通の遊びです。
もうちょっと意訳して表記すると「お母さんがいない、お母さんがいない」と言いながら顔を隠して子供の不安をあおり、最後に両手を開いて「いたーっ」と言って安心させるんですね。うちの子どももこの遊びが大好きでした。
これを哲学的な言葉で表現すると「ない、ない、ある」です。
人間の満足感は「落差」によって決まりますので「お金がない、お金がない」という貧困状態の人が「充分なお金がある状態」になった時に、我々の満足感はマックスになるわけです。そう考えると、生まれつきの貧乏は「最高に有利な舞台設定」とも言えるんですね。
つまり「ある」という感動を存分に体験するためには、まず「ない」というドン底の状態を知らなければいけないのです。できれば「ない、ない」と2回繰り返すぐらいの長い下積み時代があるのが理想でしょうね。
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