カーテン越しの未来あるいは幻想/映画「死ぬまでにしたい10のこと」感想
横になるアンがビーズのカーテン越しに、
自分と同じ名を持つ女性が旦那と二人の子どもと楽しそうに笑いあっている姿を眺めている。
この光景は、アンが亡くなったあとの来たるべき現実なのか、あるいはアンだけが望んでいる幻に過ぎないのか。
余命宣告って、許可状のような感じだと思った。
「もう死んでもいいんだよ」って言ってもらえているような。
別に死にたいわけじゃない。
でも、死が間近に迫っていることは逃れようのない事実だし、
私だってアンが考えるように、苦い薬を飲んで、管まみれになりながら延命なんてしたくない。
だったら「あなたの人生はここまでです」ってあらかじめ教えてもらっておいてそれまでに自分を使い切って死ねたら本望なんじゃないかと思う。
期限があったほうが、今自分が何をすべきか、自分が本当にやりたいことはなんなのかがちゃんと見えてくる。
もちろん、余命宣告をされてしまったら、
やりたいのにできないことだってあると思う。
でもそれは来世の私に託してしまえばいい。
今の私にできる、今の私がやりたいことをすべてやりきって、私は私を使い果たして死にたい。
そんなこと言いながらも、自分の死に対峙したら
死にたくないって思うのかな。
死んだらみんな、私のことなんて忘れるのだから。自分勝手に、たとえお節介でも死ぬまでにしたいことをやってしまえばいいんじゃないか。
アンの「私が死ぬまでにしておくこと」のリストの一つ、
「娘たちの気に入る新しいママを探す」はもしかしたら娘たちや旦那にとっては余計なお世話になるのかもしれない。
それでも、アンなりの家族へ対する愛だったはず。
それがたとえ未来においてどんな形になろうとも、アンは未来を生きられない。未来を見ることはできない。今しか分からないんだ。
だったら今自分が最適解だと思える選択をすればいい。
どうなるか分からない未来にばかり気をとられて、今を疎かにしていてはきっと価値ある未来にはたどり着けない。
未来はいつかの現在なんだ。
「死ねばなんにも感じない。」
「後悔さえ。」
「あたしが消えてもなくならないものばかり。」
私が死んだとき、一緒に消えてなくなってくれるものなんてあるのかな。
死ってそういうものなんだろうな。
私がある日死んでも、他の人は今までどおり自分の人生を送っていく。
私の人生にとって私の死は人生の終末だけど、他の人の人生にとってはただの通過点。
それを別に嘆くつもりもない。
私にとっても誰かの死はきっと通過点でしかない。
スーパーマーケットにて、アンの思考、
「ここじゃ誰も死について考えない。」
たとえば、明日死ぬだなんて思っていないから、
明日の食材を購入する。
添加物まみれの食材を消費する。
余命宣告を受けたアンも、家族のため、明日も生きている自分のために食材を購入して料理を作る。
余命宣告を受けてもそれまでは人生は続いていくし、ちゃんと毎日を生きなくちゃならない。
アンは自分の期限を知って自暴自棄になるのではなく、事実を受け入れて、それまでにしておくことを実行した。
10項目のうち、実行しなかったものもあるけど、でもそれも彼女の選択のうちの一つだった。
途中で映し出された、旦那が一人であの場所で深刻な表情を浮かべながら景色を眺めている光景。
ひょっとしたらアンが旦那じゃない男と二人で去ってしまった未来の映像なのかなと思った。
私の思い込みだった。
それは来ることのなかった未来だった。
でも、もしそれが私の思い込みではなく現実になっていたらアンが遺された人々へ向けて録音したテープは、母あるいは妻(あるいは娘)からの愛情溢れるものではなく、途端に鉛のような重さと冷たさを持ったものになってしまうね。
死にゆく人が、遺される人に向けて何かを遺そうとしたとき、その人の現存時の行動によって
その遺物はどんな意味にだって変わってしまう。それは愛おしくもなるし、憎ましくもなる。
まあ、でも、死んでしまえばそれまでだ。
死んでしまえば後悔さえ感じないのだから。