水星の魔女の1期を見て
Prologue:はじめに
※※注意※※
このノートは水星の魔女のネタバレのみならず、多数のガンダム作品のネタバレを含む内容となっています。ご了承ください。
最初に謝罪を申し上げるのですが、僕は水星の魔女を馬鹿にしていました。お察しされるように「これはガンダムじゃない」という錆びついた理屈でこの作品を否定していたわけです。僕の初めてのガンダムは逆襲のシャアでした。(本当はAGEなんですが、これはかなり忘れてしまっています…AGE1スパローが大好きだったことは覚えているのですが、話の内容がさっぱり抜け落ちてしまっていて。機会を見つけて観直したいとは思っています)
逆襲のシャアというのはいわゆるファーストガンダムの時系列に並ぶ作品宇宙世紀シリーズの一つで、ファーストで敵対し死闘を繰り広げ、一度はZ(ゼータ)で共闘したアムロとシャアがもう一度敵対し、決着をつける━━というストーリー。僕は初めて逆シャアを見た時訳がわかりませんでした。当然です、ファーストもZも何も観ていないのですから。しかしわからず終いなのは癪と思い、ファーストの劇場版3部作を観てみようと思い立ちました。本当に衝撃でした。それまで本気で魅入ったアニメ作品と言えばダンボール戦機ぐらいだった僕は、何十年も前に作られた機動戦士ガンダムという作品の世界観に引き込まれます。
正直、お世辞にもグラフィックが綺麗とは思いませんでしたし、今も思ってません。リアタイ世代には馴染みのグラフィックであることは承知の上ですが、ダンボール戦機から入った僕は逆シャアのグラフィックでも微妙だな…と感じる人間ですから。(でも逆シャアが一番好き)ですがガンダムの魅力は容赦ない命のやり取りが行われる戦場というリアリティと、人と人とはわかり会えるかも知れないというフィクションが同居していることではないでしょうか。これはグラフィックに満足出来ずとも楽しめ、なおかつ恐ろしいほど惹き込まれる部分でした。僕のガンダムに対する姿勢、”ガンダム観”とも呼べるものはこの時期から今の今までずっと変わっていません。
このnoteを通して何故僕がこれはガンダムじゃないと突き放していた水星の魔女を好きになったのか、これはガンダムだと思ったのかを記そうと思います。
ep1.ガンダムじゃないよね!?
先に断っておきますが、今現在の僕の考えとしては水星の魔女は列記としたガンダムであり、また新時代のガンダムでもあると思っています。それを踏まえた上で「これはガンダムじゃない」と感じた時の感触を思い出して見ようと思います。
まず機体デザインです。アニメ放映前に先んじて公開されたガンダムエアリアルは旧来のガンダムとは一線を画するデザインなのです。比較対象としてガンダムMK Ⅱと並べてみます。MK Ⅱを選んだのは趣味です。カッコいいよね。
両者を比較してわかることを箇条書きにすると
・エアリアルは顔のシルエットが逆三角形になっているが、MK Ⅱは四角い
・エアリアルは比較的肩が小さく、MK Ⅱは大きい
・エアリアルはウェストが胸囲に比べ極端に細く、MK Ⅱは胸囲に比べてやや細い程度
・エアリアルの脚は大腿部がかなり太く長く下腿は小さい、MK Ⅱは大腿部が小さく下腿が大きい
以上の特徴があるのですが、僕はエアリアルを見た時直感的に女の子っぽいと感じました。小顔でウェストが細く、太ももがむっちり…紛うことなき女の子じゃないですか。MK Ⅱは語るまでもなくマッシブで男らしいデザインになっています。今までのガンダムシリーズの中でもガンダムエクシア等の00系ガンダムは細身ではありましたが、それは単純に細身なガンダムであり、女性らしいフォルムというわけではありませんでした。(エクシアを美少女とする論調には結構賛同していますが)
主人公機のデザインというのはその作品の入り口にもなりますし、言ってしまえば作品の看板でもあるわけです。エアリアルを見た時からずっと「今までとはまるで違うガンダムになりそう」と思っていました。
次に主人公がスレッタ・マーキュリーという少女であることです。これまでのガンダムシリーズは基本的に男性が主人公で、それはファーストから続く伝統でもありました。ガンダムUCでのブライトのセリフで「君がガンダムのパイロット、ニュータイプであるならば…」と主人公のバナージ・リンクスを送り出すシーンがあります。
これは歴代のガンダムを見ているとバナージが今回のガンダムのパイロットなんだなと再確認できる良シーンなのですが、これはどういうことか。これはガンダムのパイロットはまるで受け継がれているか如く、みな共通項を持った人々だったからです。その共通項とは
・ニュータイプであること
・年端も行かぬ少年であること
・ある日突然、ガンダムに乗ることになること
この3つです。もちろんあまちゃんやバカ息子等例外はいます。ですがそれはファーストのアムロ・レイに対するアンチテーゼであり、面白さを生み出す変わり種であり、ガンダムの作品群に多様性をもたらして来たものでもあります。ですがそれでも男性であることには変わりありません、それは宇宙世紀以外のアナザーガンダムでも同じです。ガンダムという神になろうと戦った00の刹那、ぼくのかんがえたさいきょうのガンダムに乗ったAGEのフリット、鉄血やSEEDもそうだったはずです(未履修なのであやふやですみません)。しかし水星の魔女は違いました。
そう、女の子なのです。少女なのです。本当にびっくりしました…おいガンダムなんだぞ!?どうして主人公が女の子なんだ…と。エアリアルのデザインで衝撃を受けていたのに、加えて主人公の性別が女子だとは思いませんでした。
最後に、人が死なないことです。もう少し具体的に述べると水星の魔女には”戦争”が存在しておらず、MS同士の戦闘による無慈悲な命のやり取りが存在していないといういうことです。Prologueこそ突然の襲撃からの殺戮、その後エリクトの駆るガンダムルブリスが敵MSをなぶり殺しにしますが、1話以降そんな戦場はたち消えました
アスティカシア高等専門学園内で行われるのは”決闘”と呼ばれるMS同士の戦いのみ。そこに命のやり取りはなくただ勝敗を、物事を決定するための手段として用いられる戦いがあるだけです。そりゃもちろん感情過多な人間であることは自覚しているつもりですので、MSのバトルが見られるだけで嬉しいのはありますが…それでも何か物足りなさは感じてしまいます。
ep.2 いや、これはガンダムだ。私がそう判断した。
ではこれから、先程の内容を否定していきます。まず機体デザインについて。これはもうアニメを観れば一目瞭然ではありますが、このデザインで正解だったと思います。パーメットスコア6のこのカットなんかもう、このデザインじゃないとダメじゃん………こればかりは言語化ができませんご容赦ください。
加えて、エアリアルは動き方が非常に有機的です。そりゃあアド・ステラのガンダム(GUND-ARM)は人間の神経と機体をダイレクトに接続するわけですから、有機的なのは至極当然です。が、エアリアルは特段有機的に描かれているなと感じました、まるで生きているようだ。ガンビット一つ一つまでもが一個の生命としてウネウネと動くのですから悍ましさまである。ここらへんは2期で色々明かされることとなるでしょう、多分。
次にスレッタが女の子であること。これは1話を見た段階で「あ、なんだ女の子なだけで”ガンダム主人公”じゃん…」とすんなり納得できました。水星の魔女で1番すんなりしたまであります。何故か?それはスレッタがあまりに周りとズレているからです。
「ガンダムに乗ってそう」が悪口になるぐらい歴代のガンダムパイロットはズレている人が多いです。ファーストのアムロ・レイは部屋に閉じこもりっきりで自分の手でボール型のロボット”ハロ”を作り上げてしまうほど。
ガンダムに乗り込み、初戦でザク2機を撃墜しているのも尋常ではないズレっぷりです。そりゃあ誰も超えられない壁になるわけだ。
Zガンダムのカミーユに至ってはもう説明する必要もないでしょう。自分の名前が男なのにカミーユという女の名前でコンプレックスなのはわかる、でも軍人に「女の名前なのに、なんだ男か」と言われてキレた挙げ句「舐めるな!」と叫び殴りかかる、その上反省する素振りも見せない。その上捕まって尋問されたら今度は尋問したMPを逆恨みして、その後ガンダムMK Ⅱに乗り込んでMPをバルカン砲で撃つんですよ、威嚇射撃に留まってはいますがおよそ分別がある人間の行為じゃありません。
UCのバナージも同じです。プチモビでミネバを助け、彼女の願いを聞き入れ共にメガラニカのビスト邸を目指すまではいいでしょう。自分の実家なわけですから勝手に入っちゃうのもまあ100歩譲って許しましょう。でも初対面のミネバに「オードリーだよ!俺にとってはオードリーだ!必要だって言ってくれ!」はちょっと理解に苦しむものがありませんか。
スレッタはどうでしょう。なんなら彼女は今までのガンダム主人公よりガンダム主人公してるとまで僕は思いました。初対面の人間にはどもりまくり、また同級生に身につけているカチューシャを「お母さんに言われてつけてんの?(笑)」とバカにされた際、元気に「もちろんです!」と答えています。彼女は同級生が皮肉を言っているとわからないのです。枚挙に暇がないので詳細は省きますが、これ以降も彼女は同じような言動を繰り返します。極端にコミュニケーションが苦手なのです。非常にガンダムに乗ってそうだなと思いました。
最後に人が死なないについて。残念、死にました。それも主人公のスレッタの手によって。このシーンは様々な解釈が出来るでしょう。「やっとガンダムが始まった!」「え、ガンダムってこんな酷いことするの…」「フレッシュトマト」「新規が苦しんでる、愉悦」「流石に露悪趣味じゃない?」「洗脳ってこわい…」「逃一教会」等
僕はこう考えます。これが水星の魔女第一話なのだ、と。順を追って説明します。まず、ガンダム第一話の共通項とはずばり戦争の幕開け、戦いの火蓋が切られることです。
ファーストではアムロの暮らすサイド7にジオン公国のザクが侵入し攻撃を仕掛け(本当は偵察が彼らの任務だったのですが)、戦闘が始まります。アムロはその戦闘の原因であるザクを倒すために、ガンダムに乗り込むわけですね。Zのカミーユは自分を尋問で痛めつけてきたMPに報復がしたいというイカれた理由でガンダムMK Ⅱに乗り込みますが、その後コロニーに乗り込んできたエゥーゴのMSに合流します。UCのバナージは自分の暮らすコロニーでネオ・ジオン残党軍袖付きと連邦軍の戦端が開かれてしまい、その戦闘の中ミネバを助けようと行動した成り行きで、ユニコーンガンダムに乗り込みます。
もちろん彼らは戦争が始まることを予知していたわけがありません。アムロは下着姿で機械をいじっていましたし、カミーユはクラブをサボって港に船を見に行きました。バナージは確かにプチモビでミネバを助けたのは非日常なイベントでしたが、それまではいつも通りの日常を過ごしていました。ある日突然日常が壊れ戦争が始まってしまう。これがガンダムのテンプレなのです。
次にMSは兵器であるということについて。アスティカシア学園で行われるMSを用いた決闘。決闘という文字面だけ見れば少々物騒にも見えますが、これはアスティカシア学園の風物詩でありある種の”見せ物”でもあったわけです。あの学園の決闘は相手の命を奪う行為は禁止、その上で戦おうというルールありきの戦いでした。(確かにエランは焼きトウモロコシにされてしまいましたが、それは決闘で命を落としたわけではありません。)
しかしMSは人を殺すための兵器である。長年ガンダムを嗜んでいる僕からすればこれは当然の理屈であり、スレッタがテロリストを叩き潰したことも恐怖はすれど納得はできます。ですがミオリネやグエル、その他のアスティカシアの生徒達はどうでしょうか?もちろん、彼らとてMS=兵器という理屈を知らないわけではありません。株式会社ガンダムを設立した後、ミオリネはGUNDを兵器として売り出そうと言った際、社員(というかクラスメイト)は難色を示していました。もっともヌーノはそれを「当然」と飲み込んでいましたが。
反応を見る限り、もしかしたらヌーノやチュチュパイセンは戦場を知っているのかも知れません。ただ実感を持って詳しくは知らないんじゃないかな?と感じました。加えてミオリネは戦場を知らない。これはかなりの確実性があると思います。またクラスメイトにこれだけネガティブな反応をされても「別に兵器でいいでしょ」と言えてしまう。性格的な理由もあるとは思いますが、それを差し引いても彼女にとって戦場は縁遠い存在なのではないでしょうか。
またそれはグエルにも当てはまることです。彼はスレッタが来るまではホルダーでした。劇中でもテクニックだけを見るなら図抜けているグエルですが、それはつまり多くの決闘で勝ち上がってきた証拠でもあります。ですが彼はいついかなる時も「正々堂々勝つ」ということに拘ってきました。遮蔽物を全然使わなかったり、真っ向相手に切り込んだり、ファラクトのガンビットが展開されてもちょっと棒立ちしてたり。これは彼の戦闘センスが低いのではなく「決闘」というシーンに於いては地の利を活かした戦い方や、搦め手、一瞬の状況把握などはあまり要求されない能力だったための戦い方、スタイルなのでしょう。
MSに乗っているのに決闘向けの戦い方しか知らないってさあ…と僕は感じてしまいますが、グエルにとってはMSは決闘するマシーンなのです。MSが人を殺すための兵器であるという理屈はあくまで長年ガンダムを嗜んでいる僕の理屈であり、グエルにとっては理解もとい、考えもしないのではないでしょうか。
ep3.これが、これこそがガンダムだ!!
しかしそんなMSが人を殺すための道具ではなかった水星の魔女でも、11話のラストから12話を堺に変わってしまいます。
プラントクエタを襲った"フォルドの夜明け”という反スペーシアン組織によるテロ行為。彼らの目的は未だ全容はわかりませんが、今回は触れません。語るべきはそこではないからです。では何を語るべきか。それは彼らは最初からガンダムを「人を殺すため」に使ってきた。ということです。アスティカシアの生徒は初めて実感したはずです。MSは人を殺すための兵器なのだと。
またその戦闘の中、プラントにアスティカシアのガンダムが居ると聞いたグエル(ボブ)はデスルターに乗りプラントに向かいますが、不幸にも鉢合わせた父親の乗るディランザを死にたくないという一心で撃墜してしまいます。彼は戦いを望んでいたわけではありません。ただ大好きなスレッタに会おうと必死だっただけです。しかしグエルは初めてMSで人を殺めました、しかも実の父親を。決闘ではないMS同士の戦闘の恐ろしさを知ったはずです。
そしてお馴染みのハエたたきシーン。軍需産業をやろうといい出した時には想像もしていなかったでしょう。目の前で人が死ぬなど。ましてハエを叩くがごとく人がMSに潰され、腕が千切れ飛び、その血が自分の顔に付くなどと。ましてそれが自分の花婿、スレッタがやるなどと1mmも予想しなかったはずです。
今まで続いていた平和や、各人が持っていた観念。それらが尽く否定され人が死ぬ。ある日突然日常が壊れ戦争が始まってしまう。これはガンダムの1話そのものですよね?
ep4.なんで笑ってるの…(あとがき)
こんな酷い言い方はありませんが、僕は12話を視聴した時、恐怖と同時に「やっと人が死んだぞ!」と喜びの感情が湧き上がり笑っていました。正直水星の魔女はこのまま学園物と企業間の謀略がメインの話で、戦争とは無縁のガンダムなのかなあ…と思っていました。だからこそ所謂厄介ガノタと言われている(僕もそのケがありますが)所謂宇宙世紀から続く伝統的なガンダムが好きな人々にウケが悪かったのだと思います。
ガノタってお硬いのねと一蹴されればそれまでですが、やはりガンダムの名を冠する以上、戦争とMSとその上で繰り広がる人間ドラマが見たいと願うものです。いやしかしそんなことを言っていたらガンダムは逼塞する。だから新規向けのガンダムとしてこういうのもあっていいじゃないか…そう言い聞かせて視聴していた矢先このエンドだったので、本当に嬉しかったのです。水星の魔女も紛うことなきガンダムであった、求めてたものはやっぱりここにあったんだと。
思えば12話を1話とするなら、今までの話で丁寧に丁寧に”日常”を描いてくれていたんだなとも思えます。こんなに丁寧に描いた日常を最終話で破壊するアニメも珍しいですが、それがガンダムなのでしょう。バンダイはやりやがったってことだ。序盤から日常が壊され戦争が始まるというガンダムのお約束に僕は慣れていますが、水星の魔女から見始めた人はそんな訳はない。きっと新規層を獲得するためにこの構成に至ったんだろうなと、今となっては感服しています。新たな層も取り込みつつ、なおかつ古参のオタクも楽しめる。まさに新世代のガンダムだなと思っています。2期が今から楽しみです。
ここまで読んで下さりありがとうございました。ではまた。
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