#050宗教および宗教施設と地域社会のかかわりについて考えてみる。
夏ごろに「新ジャンル、はじめました」という記事を書きましたが、あれ以降、信心もなければ、特定の宗教に強いわけでもない著者が一体何を書けばいいかと継続的に考えていました。もともと宗教史を生業にしている訳ではないですので、地域での信仰心の広がりなどはなかなか取り扱えそうはないですし、現地の神社、仏閣の写真を撮影しながら、果たして地域と宗教の関係について、自分独自の切り口でどのようなことが執筆できるのかと、暗中模索していたところ、ふと以前に行った講演のことを思い出しました。
その講演では、明治前期を題材として、地域社会と宗教施設の関係を、とりわけ滋賀県下の湖東地域を素材として徴兵、戦争と宗教施設のかかわりについて明らかにしています。この手法を今回は使えるのではないか、という気がしたので、ここでちょっと復習をしておこうと思った次第です。しばらくは明治前期の滋賀県の様子にお付き合いいただければと思います。
滋賀県下は、非常に郷土史編纂に熱心で、郡誌が豊富に発刊されています。郡誌編纂は大正末年の郡制廃止に伴って編纂されていることが多く、おおむね兵事関係では西南戦争からシベリア出兵までで地域からどれだけの人々が出征して、それだけの人が亡くなったかを、網羅的に掲載していることが多いです。琵琶湖の東、いわゆる湖東地域にある神崎郡、愛知郡、蒲生郡の三郡では、西南戦争には一一三名の地域住民が出征していることが、これらの郡誌から読み取れます(レジュメ表一参照)。彼らはどのようにして地域から戦地に行ったのか。具体的に追っていきましょう。
滋賀県で徴兵された人たちはどこに配属されたのか、ということですが、明治初年の徴兵制度では、第4軍管区の大阪城にあった「大阪鎮台」に配属されます。その中でも、大阪鎮台には、歩兵第8連隊(大阪)、歩兵第9連隊(大津)、歩兵第10連隊(姫路)の3つの連隊があり、滋賀県下で徴兵された人々は大津にある歩兵第9連隊に所属することになります(レジュメ表二参照)。歩兵第9連隊は、第1大隊、第2大隊、第3大隊の3つの大隊によって構成されており、それぞれの大隊は4つの小隊によって成り立っていました。各大隊は士官や士卒も含めて600名から700名ほどで構成されていたので、各小隊はおおむね150名から175名程度の人数で構成されていたと推定されます。
徴兵令によると、徴兵検査は府県庁所在地かあるいは適宜の地において行うこと、とあります。そうすると滋賀県下においては現在の大津市で行うことになります。具体的に史料を見ていくと、湖東地域の三郡はいったん現在の近江八幡で行っていたようです。近江八幡では、おそらく医者による身体検査までの徴兵検査が行われていたと考えられます。というのも、徴兵検査の附則に身体検査合格ののちに「抽籤終リ常備及シ補充ニ当リタル者ハ書翰往復算術出来得ルヤ否ヤヲ試ムヘシ」(史料一参照)とあり、体格的に合格だったものの中から抽選をした上で、文章読解、計算の能力を確認する、という検査項目が書かれており、抽選は別な史料(史料二参照)で「為抽籤大津徴兵署江御呼出シニ付」とあり、大津にある徴兵署において抽選以降の徴兵検査を行っていたことが判るからです。文章読解、計算についても、「読文ハ右翰牌ヲ読マシメ無滞読ミ得ル者ヲ上等トシ二字以上誤ル者ヲ下等トス算術ハ除法以下誤リナキ者ヲ上等トナシ誤リアル者ヲ下等トナス」とあり、問題文を音読する時に滞りなく読める者を上等、二字以上の間違いを出したものを下等とする、算術は割り算までを滞りなく出来る者を上等、間違ったものを下等とするというルールになっていたようです。県の徴兵係官による抽選及び文章読解、計算は現在の近松別院で行われていたようです。
近松別院は、浄土真宗本願寺派の直属寺院で、門主が住職を兼任する、本願寺派の中でも重要な位置づけの寺院です。こちらは現在GoogleMapで見ても非常に寺域が広いので、徴兵検査で多くの人を集めるにはうってつけの場所だったのでしょう。
ちなみに、徴兵検査には村役場の役人同伴ということが必須になっていました。そのため、検査場への往復の費用や遠方の場合には宿泊費が計算されています。また、抽選は本人が都合がつかなかった場合は代理人を立ててもよいとなっているところが、面白いと思います。
昭和の時代になると、大津市の公会堂などを利用して徴兵検査が行われますが、明治時代にはまだ公共の大きな建物がないため、寺院の敷地を間借りして行っていたというのが、なかなか興味深いです。
地域の宗教施設と地域社会ということで、滋賀県の例として簡単にご紹介しました。明治時代初期には、このように宗教施設が地域社会の運営のために活用されてた例がままあります。例えば、明治初期の大阪府では「河内県」という河内一国で県となっていた時期がありますが、その際の県庁は大信寺(八尾御坊)に設置されました。明治初年というと急場しのぎにいろいろな設備を必要としたので、必要に応じてそれにそぐう建物を接収して対応していたと考えられ、それらに打ってつけだったのが寺院建築だったというようにも言えるかと思います。
最後に、古い報告ではありますが、今回の内容を含んだ講演のレジュメを参考までに付けて置きます。個人名などもありますので、ご使用の際はくれぐれも注意してご活用いただければと思います。