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#058その石碑を探せ!(上)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(9)

 今回は、仕事上やむを得ず急に石碑の写真を取りに行くことになったお話をしたいと思います。
 著者は、以前「Important study achievements_006 "Abouto the memorial service in the area of the Southwestern Rebellion war dead"」でご紹介した論考もあるとおり、関西における西南戦争の慰霊などについても守備範囲としていまして、石碑や墓地、慰霊碑などを現地で探してきて論考にするということをしています。

 さる共著の本で近代の宗教を担当することになり、ここのところは調査対象の各地の寺院や神社を見て回るということをしておりましたが、神社仏閣にある戦争慰霊碑についても触れないわけにはいかないだろう、ということになり、対象地域に設置されている戦争慰霊碑を書籍をもとにまずは探してみました。参考にしたのは、忠魂碑調査集編集委員会編『大阪府忠魂碑等調査集』(一九九五年一〇月、大阪護国神社社務所)です。こちらを参考に、調査対象地域にある慰霊碑を数えると、一〇基ありました。このうち、これまでに現地で見たことがあったものは、この一〇基のうち二基のみでした。見たこともない八基の慰霊碑を探す。これは新しいことが判りそうで、非常にワクワクしてきました。まずは、この書籍にある、各慰霊碑の所在する住所を確認し、住宅地図を見てみました。すると、二基分がどう考えても見つからない。
 一つは町名まではあるものの番地がない。こちらは「本町3丁目」とあるのですが、番地がないため細かな位置が確認出来ない。しかし一つヒントの記載がありました。この慰霊碑のページに「市有地」とありました。ということは、公共機関の所在する土地の片隅に設置されている、と考えて間違いないでしょう。この町名の中にある公官庁が設置されている場所は市役所、市役所別館、市立図書館、福祉施設の四つ。市役所と図書館は何度も行ったことのあるよく知っている場所で、慰霊碑を見かけたことがないので、この二つを除外して、市役所の別館と福祉施設には行ったことがないので、このどちらかではないかと的を絞って住宅地図を見てみました。市役所別館は明らかにここ二〇年くらいで建てられた建物で、図書館の横にあり、詳しく見たことがないものの、何度も通ったことがあるので、どうやらここにはなさそうです。次に福祉施設ですが、ここは昔からの役場関係の施設の建っていたところですので、怪しい気がしてきました。住宅地図を見てみたのですが、特に敷地に石碑の地図記号はありません。現地に行って探すのも一つの手ですが、やみくもに探して、現地で時間を浪費するのも、と思い、GoogleMapのストリートビューを使ってみようと思い、その目的の建物の周りを見てみました。結果、ないことが判明。一体この慰霊碑はどこにあるんだろうかと、一旦は棚上げにしました。
 もう一つはというと、その書籍に書かれている慰霊碑の所在地とされている住所表記が、そもそも町名として存在していない、ということです。書籍には「南高安3丁目」とありますが、そのような町名がない。これは困った、と思い、勘を働かせて、似た町名などを探してみるけれども見つからない。似た町名で、「高安南町3丁目」というところはあるのですが、この町名の地域は、地図で見ても明らかに碁盤の目に整然と開発された住宅地で、寺や神社、墓があるような場所では到底ない、戦後に開発された新興住宅地のため、慰霊碑などあろうはずもない地域。もちろん、住宅地図を見ても地図記号の「石碑」マークなど全く見当たりませんでした。こちらも仕方がありません、棚上げです。
 まあ、一〇基のうち八基まで住所が判っているので、二基を棚上げにして調査を進めるか、と思って、地図に八基の所在地に印をつけ、効率よく調査できるように計画を立てていきます。
 その間、何となく、以前見た別の書籍で、そういえば慰霊碑の事を記していたなと思いだし、その書籍、『中河内郡誌』(中河内郡役所編、一九七二年、名著出版復刻)を引っ張り出してきて、確認してみました。その二四七頁にこうあります。

「忠魂碑 八尾町、郡役所前に忠魂碑あり。明治十年以来の征役に戦死病没せる者を記念し、且其英魂を慰め、以て見る者をして義勇奉公の尚ぶべきを知らしめ、又観感の余自ら世道壬申に裨益する所有らしめんが為、大正四年四月左記設計によりて建設したる銅碑にして、其経費四千円を要したり。(後略)」

  ここに「郡役所」とあり、はたと気づきました。郡役所は大正末に廃止されますが、これも今はないけれども公官庁だと。すぐさま、郡役所の位置を調べてみたところ、郡役所のあった場所は、現在は公園になっているようでした。あわせて住宅地図でも、その公園に石碑の地図記号がないかと確認しました。が、ない。念のためGoogleMapのストリートビューでも確認しましたが、公園の入り口付近にはそのようなものは見当たりませんでした。せっかく新たな糸口をつかんだのに、と思いながら、何となく公園付近をストリートビューでうろうろしていると、公園の向かい側に何やら変な石造物が…。あわてて、『中河内郡誌』を読み直してみると、「郡役所前」とあるではないですか!慰霊碑は、郡役所の敷地内に設置されていたのではなく、文字通りの前、つまり道路を挟んだ向かい側の敷地にあったんだと。で、ストリートビューで可能な限り拡大してみると、何だか見たことがある形…。ストリートビューの写真では細かな点までは確認できないのですが、これは先の「本町3丁目、市有地」の石碑の写真そっくりです。きっと同一物に違いない。ということで、『大阪府忠魂碑等調査集』に記されている情報と『中河内郡誌』に記されている情報を照らし合わせてみました。『大阪府忠魂碑等調査集』によると、建立年月日は「大正四年三月」、揮毫者は「畠山運成」とあります。『中河内郡誌』の方はというと、「大正四年四月左記設計」とあり、篆刻の揮毫は「第四師団長陸軍中将 仁田原重行」とあります。…なんだか、微妙に異なっており、同一のものではないみたいです。とすると、同じ町内に似た慰霊碑がもう一基あるということでしょうか…。これはもう現地を歩いて確認するしかありません。
 と、そうこうしていると、「南高安3丁目」の慰霊碑も、写真を見ると何だか見たことがあるような気がしてきました。一体どこでみたことがあるんだろうか…、懸命に過去の記憶をたどってみると、たぶんここで見たんだろうという場所を思い出しました。それはとある小学校のすぐ傍でした。念のため、その場所を地図上で確認しました。その場所は、町名は全然異なっていましたが、住宅地図上には石碑の地図記号がありました。で、その石碑の傍の小学校が「南高安小学校」でした。念のため、こちらもGoogleMapのストリートビューを使って該当する位置に慰霊碑があるかどうかを確認してみたところ、『大阪府忠魂碑等調査集』掲載の写真と同一の慰霊碑がありました。著者の過去の記憶は間違っていませんでした。とはいえ、これはもう誤植とかという話ではないレベルの誤りですね。住所からでは目的の慰霊碑には全くたどり着かないというのは。

 と、まあ、こんな感じで、資料や住宅地図を使い、果ては文明の利器・GoogleMapのストリートビューなんかも駆使して、慰霊碑の事前調査として所在確認を行いました。なかなかこのように類推を重ねての探索というのも無いように思います。著者自身も、既に破却されて見つからない、などの事は経験としてありましたが、こういう誤りなどで振り回されることはこれまで経験したことがありませんでした。今回はこのような苦戦も含めて、どうやって石碑を探し出すのか、という過程もご披露しました。次回は現地での調査の様子などについてもご紹介出来ればと思います。


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Nobuyasu Shigeoka
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