#169幕末維新の志士とその顕彰(五)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(25)
前回は大正三年(一九一四)に建立された伴林光平の二つの記念碑に関連して、実は明治二五年(一八九二)に既に記念碑建立の動きがあったことが明らかになる史料を新たに二つ見出した旨を記しました。今回はその二つ目の史料について紹介します。
次に二つ目の史料、「伴林翁建碑寄附金取扱手続」についてですが、これは、謄写版ので史料で、七条の条文から構成されており、その内容としては、寄付金は金額を問わずに受け取ることや、受付期限が明治二五年一二月三一日とすること、記念碑には寄付額と氏名を記すこと、この会にには委員長が決められていたようで、一円以上の寄付金を行った者には記念碑落成後に委員長から感謝状が贈られること、などが記載されています。
この二つの史料から、伴林への贈位を契機として、明治二六年(一八九三)に記念碑を建立しようという計画を立てていたと言えるでしょう。
実際には明治二六年(一八九三)には記念碑は建立されていないようですので、この計画は頓挫したのでしょう。
「幕末維新の志士とその顕彰(二)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(15)」でも記したように、大正三年(一九一四)になり、天誅組五十年祭を契機として二か所に碑が建立されますが、そのうち、教恩寺に建立された「贈従四位伴林君光平碑」の脇に特に尽力した人物の名前が記された小さい碑があります。そこには、かなり判読が困難なのですが、筆頭に「奥田多賀雄」という名前があります。
この奥田多賀雄という人物、先に名前を挙げた郡長の深瀬和直が非常に薫陶した人物だったようで、自らの異動の際にもその異動先へ配置換えをして、八尾郡役所から、島上・島下郡役所、南河内郡役所と引き連れていっており、その後、南河内郡長となった人物です。このような経歴もあってか、深瀬の携わった事業を引き継いで、記念碑の建立を推進したのではないかと考えられます。
既に明治二五年(一八九二)には贈位の機会に関係する地域では、記念碑を建立しようという動きがあり、結果としては実現しませんでしたが、大正三年(一九一四)に伴林光平の記念碑などが天誅組五十年祭を契機に建立されますが、このような事前の流れがあってこそ、大正三年の記念碑建立に結び付いたのではないか、という事実を明らかにすることが出来ました。
著者個人としては、発刊された本のコラムに書いた、舌の根も乾かぬうちに新たな事実にぶち当たるというのは、先の仕事を否定するようで何とも言えないですが、新たな史料を発見して、そこから更なる事実を明らかにしていくことで、自身の推論や立論を試されているようで非常にスリリングな楽しみがあると言えるでしょう。