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#082古文書講座での学び―研究者の常識、一般の常識(一)

 平素、仕事などで古文書講座を担当しています。研究者としてや学芸員としては常識的なことでも、一般の方には初めて聞くことがたくさんあります。今回は講座をしていて一般の参加者の方から珍しく思っていただけたことなどをご紹介しようと思います。

 テレビで時代劇を見ていても、幕末の物語ですと、薩摩藩、長州藩、土佐藩などの「藩」という名称が出てきます。古文書を見ていますと、ほとんど「藩」という言葉に出くわしたことがありません。特に地方文書(じかたもんじょ)と呼ばれる、その地域に残る古文書にはまず出てくることがない。では、実際に当時は地域ではどのように呼ばれていたかというと、「〇〇〇様領」ですとか「〇〇〇様御支配所」といったような表現が用いられています。「藩」という概念は江戸時代中期ごろに中国の概念を用いて学者が使い始めた言葉であり、それを明治維新後に、現在の都道府県にあたるような単位として、明治新政府が使用しました。その後、歴史研究者が、この「藩」概念を江戸時代初期まで遡って敷衍的に使用したことによって、現在のような用いられ方がされるようになったということです。

 また、先ほど例に挙げた薩摩藩、長州藩、土佐藩などは、現在の鹿児島県や山口県、高知県というように地域の一円的支配の範囲を指し示しますが、関西ではいわゆる江戸時代の「藩」はあまり見当たりません。大阪府では高槻藩、岸和田藩、京都府では淀藩、亀山藩など、薩摩藩や長州藩のように現在の県単位くらいの範囲で支配領域を持つものは少なく、他府県に比べるとかなり小さい領域のものが多いです。では、それらの関西の藩以外の地域はどのようになっていたかというと、「相給(あいきゅう)」と呼ばれる、一つの地域を複数の領主が支配する複雑で錯綜した領主支配が展開されていました。例えば、山城国乙訓郡上植野村(現在の京都府向日市上植野)について国立歴史民俗博物館のHPにある「れきはくデータベース」にある「旧高旧領取調帳データベース」から見てみましょう。

「れきはくデータベース」にある「旧高旧領取調帳データベース」から見える上植野村の情報。

 上の写真は「旧高旧領取調帳データベース」での検索結果です。上植野村一か村で合計一三名の領主による支配を受けています。このような複数の領主支配を受けることを相給と呼んでいます。相給による支配は関西に特徴的な支配方法です。関西は地味(じみ)が良く、狭い耕作地でも多くの収穫が見込めるため、各領主は領地替えや加増の際にはこぞって関西での領地を欲しました。そのため、上記検索結果のように一か村に複数の領主がいるという錯綜した支配構造になっています。そのため、一か村なのに各領主ごとに庄屋が設ける必要があることや、領主ごとに年貢率が異なったり、制度や法律も異なるため、様々な手続きが煩雑になっていました。ですので、いわゆるドラマの水戸黄門のような悪代官が出て来て年貢率を不当に上げるようなことも、隣の領主の年貢率などが簡単に判るために、地域住民は不当であることを訴え出ることが出来るので、まず起こりえない話となります。水戸黄門などで起こる事件のシチュエーションは、広域な一円支配の場所でないとなかなか起こり得ない出来事になるので、関東、東北などの広域支配が当たり前の地域での出来事を念頭としていたのではないか考えられます。

 ちなみに、「旧高旧領取調帳データベース」の「旧高旧領取調帳」というのは何かというと、明治維新後に、新政府が幕府や各藩がどこをどのように支配していたかを全国的に網羅して把握するために、明治初年に作成した資料です。ですので、記載されている領主の名前は、幕末、明治初年段階での領主になります。
 皆さんもご自身の住んでいる地域がどのような支配構造になっていたかを、「旧高旧領取調帳データベース」で見てみると面白いと思います。下記にURLを記しておきますので、お試しいただけると幸いです。


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