#119古文書の書き手と読み手ー書き手の「判ればいい」ものの書きようについてー
今回は古文書講座をしている時に必ず聞かれる疑問について記したいと思います。
よく古文書講座をしている際に聞かれるのが、一人の書き手の、一つの史料の中でどうして異なるひらがなが出てくるのか、と。このような質問があった場合、確実なことは判りませんが、次の文字への繋がりから右から書き始めた方が書きやすいのか、左から書き始めた方が書きやすいのか、はたまた真ん中からなのか、という次の文字への繋がりを意識して恐らく書かれているのでは、というようにお答えしています。また、現在のように五十音がひらがな五〇文字によって構成されているわけではないので、「あ」を表現する場合に「安」の万葉仮名、あるいは「亜」の万葉仮名、または「阿」の万葉仮名、とどれを選んでも間違いではない、ということもあるでしょう。このように、古文書の世界では、現代の国語のようにきちんと文字が定式化されていないので、ここで書き手が言おうとしているのか、何を表現しようとしているのかということを考えながら読み込まないと、古文書の文字は読めないようになっている、といえるでしょう。
このような書き手の「判ればいい」というものの書きようというものについて、今回はご紹介しようと思います。
上記写真には 「専代平」とあります。文字の読みとしては「せんだいひら」と読めますので、正しくは「仙台平」となります。「仙台平」とは絹の袴地の一種ですが、一般的に男性の袴時の総称としても使われます。この史料では、袴地をさる店で購入したことが読み取れます。「専代平」として、文字として馬鹿正直に辞書で引いたとしても行き当たりませんが、「せんだいひら」と読んでいれば、辞書で文字違いの「仙台平」に行き当たります。これは酒肴の領収書などで「鮃」のことを「平目」記載することなども同様のことといえるでしょう。
当時は、現代的な「国語的に正解か誤っているか」ということはないために、「相手に通じればいい」という書き方をするため、こと、古文書を読む場合に関しては、本当に正直に「文字だけ」を読めば良いという話ではなくなってきます。そのため、文字を読んだうえで、その内容を類推するということも重要な技術となってきます。
筆者も二〇代の頃には先輩研究者に「君たちは教養がない。もっと教養を身に付けないといけないよう。」と注意を受けたことがありました。さすがに最早マルクスの『資本論』を読むということは必要のない時代になってきているとは思いますが、着物の生地や魚の名前くらいは知っておかないと、史料に何が書いてあるのかが理解出来ないということがあるかも知れません。