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#002江戸時代の御朱印帳

 ここでは、普段、論文や講演などにはなかなか出来ないようなお話なども紹介できればと考えています。今回は、史料調査をしていた中での小ネタを一つ。

 史料調査をしていたら、親鸞聖人の旧跡寺院の、いわゆる「ご朱印帳」が出てきました。江戸時代の後半のものです。これだけでは特筆すべきこともないのですが、各参拝した寺院の所在地を挙げると、河内国、越前国、武蔵国、加賀国、上総国、下総国、山城国などなどがあるのですが、概ね2ヶ月くらいで回っているように見受けられます。各所に参拝することは、代表的なものでも四国八十八か所霊場巡りや観音霊場巡りなどが挙げられ、江戸時代にも各所の寺院が参拝客でにぎわっていました。最近の研究でも、佐野泰道「東京都あきる野市周辺の近世の札所について : 百地蔵めぐり・小川三十三か所観音霊場・武玉八十八か所」(『寺社と民衆』12、2016年3月、民衆宗教史研究会)、野口一雄「最上観音霊場の札所観音成立期を探る : 中世末・近世初頭の落書から」(『山形民俗』26、2012年11月、山形県民俗研究協議会)など、江戸時代に盛んに霊場巡りなどが行われていた例がいくつも挙げられます。江戸時代の一般庶民にとって、伊勢参拝や霊場参拝などにかこつけて、ハレの場としての旅行という側面も霊場巡りにはあったことでしょう。

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 しかし、ここで気になるのは期間です。結構な距離を短時間で参拝していることになります。単純に江戸から京都までの東海道で約500Kmほどの距離があり、一般的に2週間ほどの旅程になりますので、ここでの各所を周っている「ご朱印帳」の移動距離には、かなり移動に無理があると考えられます。

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 では、どのようにして、この「ご朱印帳」の朱印は集められたのか。ここで参考になるのが、江戸時代に歌学や儒学、漢学などの学問をどのような方法で学んでいたかということが参考になります。学びの方法としては、もちろん対面での指導、教授がありますが、江戸時代には通信網も発達していたため、書簡での添削のやりとりという方法も取り得ます。神作研一「元禄の添削」(『近世和歌史の研究』所収、角川学芸出版、2013年)などからも、書簡での添削のやり取りが行われていたことが見て取れます。このような方法が可能だったために、全国各地に蕉門の俳人が多数存在することも可能だったわけです。

 そこから考えると、この「ご朱印帳」は、おそらく各地の寺院に帳面の1ページを郵送して、朱印を捺印して返送してもらっているのではないか、と類推されるわけです。その傍証として、寺院によっては、送り付けた用紙に朱印を捺印せずに、他の用紙に押して返送してきたからか、別の種類の紙に捺印されたものがご朱印帳の台紙に貼り付けられているところが何か所もありました。

 現代の「郵送に対応してくれるご朱印帳」と、実は何ら変わらないことが、江戸時代にも行われていたということが垣間見える、なかなか興味深い史料ではないかと、個人的には感じました。





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Nobuyasu Shigeoka
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