#104裏か表か―ものの見方を考えてみる―
先日、近所の生活道を自動車で走っていると、道路に隣接している畑の光景が目に飛び込んできました。著者の現在住む地域は、春先には菜の花を栽培して、都市近郊農業の作物として栽培、出荷しています。菜の花は、開花前に刈り取って出荷し、桃の節句の際には、蛤の吸い物の具として、あるいはお浸しなどにすることで、ほろ苦い味が季節を感じさせる一品になります。下記の写真が自動車から見た光景です。
写真には手前に白い花が咲いています。白い花は大根の花で、奥に黄色い菜の花畑が広がっています。春先に季節を感じさせる美しい光景だなぁ、と著者も見ていました。
先に、花が咲く前に菜の花を出荷しますと記しました。ということは、この目の前に広がる光景は、出荷できなかった大根と菜の花がそのまま畑に放置されている光景とも言えます。そうすると、出荷出来なかった野菜を畑に廃棄している姿であるとも言えます。このように記すと、食べることが出来る野菜をそのまま放置して廃棄するというのは、食品廃棄物であるとも言えます。このように記すと、廃棄せずにどこかで活用すればいいのにという考えも出てきます。
また、農家の立場で考えると、出荷出来なかった作物は、例えばまっすぐなきゅうりではなく曲がったものが出来た、あるいは成熟するまでに実の部分に葉がかすれてしまって皮に傷があるなすびというような、味には何ら問題がないけれども小売店の基準では流通に値しない品物であるだけであるとも言えます。その場合、近隣に道の駅などがあると、個人として出荷して無駄にならないようにも出来ます。あるいは、農家としては、出荷出来ないものを運送費用を用いてどこかで販売することを考えるくらいであれば、畑に放置して腐らせて、再度土に鋤きこむことで再度畑の養分に還元するというように考えて行うということもあるでしょう。
長々と出荷出来なかったために畑に放置されている農作物のことを記しましたが、ここで述べたかったのは、同じものを見ても立場の違いによってものの見え方が異なる、ということです。同じ放置されている農作物を見ることで、放置して無駄でもったいない、あるいはこれはきちんと土に還元されるから無駄がない、と同じものを見ても全く逆の評価を与えることが出来ます。
歴史学も実は同じで、数量分析の場合も、同じ数値を多いと判断するか少ないと判断するかは、その分析した人の主観に依っています。そのため、同じ出来事、同じ数値を見ても表からも裏からも評価出来てしまいます。
著者が最近気になっていることとして、この戦国大名が別な戦国大名より優れている、ですとか、この幕末の志士のファンだ、ということなどを、かなり主観あるいは「我」が出てきている研究者もいるように思えます。
基本的に研究というのは好悪ではなく歴史的事実を公平かつ合理的、実証的に見るものであって、ファンだからとか、好き嫌いで判断すべきものではないものではないでしょう。にもかかわらず、研究者も人であるということなのか、好悪や身びいきが感じられる研究も見受けられます。どうしても物事の見方の表と裏があるように、さじ加減一つで評価が変わってしまう点は否めませんが、研究をする限りは表も裏も公平に評価することを行っていく必要があるように思います。