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#168幕末維新の志士とその顕彰(四)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(24)

 以前に「幕末維新の志士とその顕彰(二)―身近な史跡、文化財の楽しみ方(15)」という文章で、幕末の志士・伴林光平に関する史跡ついて紹介しました。今回はその続報です。

 伴林光平(一八一三~一八六四)は河内国志紀郡林村(現在の大阪府藤井寺市林)の出身の人物で、浄土真宗の寺院・尊光寺に生まれ、西本願寺の学寮や大和国の寺院で仏道修行をし、各地で国学や朱子学、和歌を学んだ人物です。弘化二年(一八四五)からは河内国若江郡成法寺村(現在の大阪府八尾市)の教恩寺の住持を務めます。文久元年(一八六一)に、光平は教恩寺を飛び出し、勤王活動に身を投じ、文久三年(一八六三)に天誅組の決起を聞きつけた光平はこの乱に駆け付けて加盟しますが、天誅組の決起は失敗し、光平は大阪方面へ脱出する道中に捕らえられ、六角獄舎へ投獄される、という人物です。

 この伴林光平について、大正二年(一九一三)の天誅組五十年祭を契機として翌大正三年(一九一四)に、玉祖神社西側に「贈従四位伴林光平君墓」が建立され、同年一一月に光平が住職を務めた教恩寺跡に「贈従四位伴林君光平碑」も建立されます。

 上記のように天誅組五十年祭を契機として、大正期に伴林光平についての石碑が二つ建立され、この内容に関して、『新版八尾市史』通史編二(二〇二四年三月、八尾市)において、著者がコラムとして執筆したのですが、実はどうもそれ以前から伴林光平の石碑建立の計画があった、という史料を最近になって新たに見つけました。新たに発見した史料によると、明治二五年(一八九二)に伴林光平に関する石碑を建立しようという動きがあったということが確認されます。

 今回発見した史料は、「贈従四位伴林光平翁建碑寄附簿」と「伴林翁建碑寄附金取扱手続」の二つになります。これらは明治二五年(一八九二)の史料で、それぞれ関連するものです。
 「贈従四位伴林光平翁建碑寄附簿」は印刷物で、冒頭に「主意」で、明治二四年(一八九一)一二月に従四位に追贈されたことが記されており、それを記念して事績を後世に伝えようということで記念碑の建設を計画した、ということを記しています。記念碑の建設については、具体的な場所は不明ながら八尾に建設する旨が記されています。
 記念碑建設の費用については、有志の寄附金によって賄うとしており、発起人として三〇名が名を連ねています。発起人には、いわゆる地方名望家といわれる、江戸時代の庄屋層の人々が多く名を連ねており、この時の大阪代表の貴族院多額納税者議員であった久保田真吾(若江郡万願寺村)や木綿商の西岡吉平(若江郡八尾村)、木村庄兵衛(渋川郡久宝寺村)や、伴林の出身地の名望家である東尾平太郎(志紀郡林村)らの名前を見出せます。また、建碑運動の中心がいわゆる中河内郡に当たるためか、郡長・深瀬和直や郡書記の石川吉寛、宇賀正行などの八尾郡役所の関係者、東成・住吉郡長などを歴任した弘道輔などの名前が見え、著名人では漢学者の藤沢南岳の名前も見出せます。
 この寄附簿は、上記のような主意書の後に寄付者を記載する欄がありますが、この部分は未記載になっているため、どのくらいの寄付があったのかは詳らかに出来ません。

 今回はここまでにしまして、次回は新たに発見した二つ目の史料を中心にご紹介したいと思います。


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Nobuyasu Shigeoka
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