【第一話】私とは?
地元の名士と言われた洋服問屋の二人の兄と三兄妹の末っ子としてこの世に生を受けました。
私の先祖は福島県の庄屋だったと聞きました。
大飢饉の時は小作農の農民に蔵にあったお米から全てを分け与えた。
【みんなで生きなければ】
全ての財を失いながら地元を助けた一族だった。そんな一族の末裔だからこそ、今の世の中の、弱者からお金を巻き上げる輩が許せないのかもしれせん。
古き良き日本は、みんな助け合いの美しい国でした。
貧しいながらにも【心】が通った温かい日本がそこにはあったのです。
本州から北海道への開拓の時代に流氷で有名なオホーツクを見渡せる地に私の祖父は降り立ったのです。
あなたは農地開拓、屯田兵をご存知ですか?
歴史の教科書で載っていたまさにその時代の北海道に私の先祖は降り立ったのです。
まだまだ荒地のその地にて開拓と警備、そして農業を広げていったのです。
その開拓精神あふれる祖父の元に私の父が生まれたのです。
そして母は大農家の娘として生を受け、実家の家紋は《葵の紋》
どうやら、由緒ある一族だったみたいです。
そんな私の祖父が息子(私の父)の嫁にと母を見初めたのでした。
祖父同士の話し合いで私の両親の結婚が決まったのです。
現代ではめったに無いのかも知れませんが当時は当たり前の出来事でした。
両親の結婚はまさにTVドラマにあった【華麗なる一族】の空気。
それぞれの祖父は同業で地元では顔見知りでも有りました。
私の父母は良家が認めた結婚だったのでした。
父は次男でした。
したがって実家は継がずに、戦争から帰ってきた後、室蘭の鐵工所に勤めることから始まり、その後は釧路に丁稚奉公を経て、裸一貫で繊維問屋を興し地元では有名な企業へと成長させたのです。
父は一代で問屋を築き大きくし、成功を手に入れたのでした。
母は長女として生まれ父と出会い、献身的に父を支え、15人程の住込み従業員を抱える大所帯を取りまとめていました。
私は兄2人の次に3番目に、やっと産まれた女の子。
一族待望の女の子だったのです。
その女の子がまさか1番のおてんばで後に父に「えみこは男の子として生まれた方が良かったかもな」
と言わしめるほどになるとは当時は誰も知る由もありませんでした。
父は私が生まれたと連絡を受けた途端に走って行ったのです。
実業家で熱血漢の父は走って行ったのです。。。。w
父の行き先は地元では大きな玩具店でした。
7段飾りのお雛様とグランドピアノを買って来ました。
もうその年のひな祭りはとっくに終わっていたのに。。。
季節外れの雛人形www
きっとそれ程、父は嬉しかった。
そう私の誕生を心から喜んでくれていたと信じています。
そんな私はと言うと、何時も直ぐ上の兄と毎日、毎日、外で真っ黒に日焼けしてははさ弊の上をあるいて落ちては赤チンを塗って貰うという毎日。
毎日の様にどこからか『コラー‼️』ときこえてる。
私は、とっても元気な女の子?
いえ、きっと元気過ぎる女の子だったのです。
時には隣りの家の広いトタン屋根を滑り台代わりに滑り降り生傷が絶えない女の子。
「私も機関銃がほしい〜!」と大泣きした、ある年のクリスマス。
叔母が兄2人には機関銃を
私にはフランス人形をプレゼントしてくれた時の事。
私は大泣きw
叔母は仕方なく百貨店でフランス人形から機関銃へと交換して来てくれました。
私は祖母から機関銃を受け取り飛び跳ねて大喜び。
この頃の私のあだ名は『鼻ったれエミチンと呼ばれる元気過ぎる子供だったのです。
そんな娘を見て父は大層嘆いていたのを、後に聞きました。
『この子は、女の子として生まれた自覚が全く無い!』とある日の父は嘆いたのでした。
そして母にしっかりと躾をする様にと御達しが出てしまったのです。
そこから何か変なスイッチが入ってしまった母の用意した習い事計画に邁進する事になったのです。
根が真面目な私は何事も手を抜かずやり通していました。
私は中途半端が大嫌い!
実業家で熱血漢の娘の私。
その様な一族で生を受けた私には何事も本気で取り組む事の素晴らしさをDNAとして受け継いでいたのかも知れません。
私が五歳の有る日の事。
日本舞踊の発表会の日高熱が出て寝ている私の枕元で、母は
「起きなさい‼️」
「発表会のプログラムに穴を開ける事は出来ないのよ!」と言い、
私は着物を着せられて頭は朦朧として記憶も途切れ途切れの中、ふぅふぅ息を吐きながら会場に向かった母と私。
練習した事は頭に入っている。
そう思って踊り通したのでした。
父も父なら母も母、少し変わった家庭に育った私。強烈な母の教育の中、私は次々とこなしていきました。
私は言いなりだったのです。
大好きな母に認められたかったのかも知れません。
小学校から中学校迄は
成績も良く、いつも委員長などのリーダー役が回って来ました。
勉強する事は嫌いではなかったので、努力して務めました。自然と成績も良く、何でも卒なくこなす子供に仕上がっていましたw
そんな私の父は熱血漢。
スポーツ万能で何にでも拘る男。
そんな父から兄たちは逃げるので、相手の居ない父の目線は自然と私に向きました。
そして熱血漢の父は常に私をスポーツ指導w
父の指導は多岐に渡って行われました。
そんな特訓のお陰か。。。
「ハイ、見本をやりなさい」
といつも学生時代の体育の時間には先生に呼ばれて一番に出るのが私。
そんな、習い事だらけの幼、小、中学校時代の私は友達と遊ぶ時間など全くありませんでした。
だから、自然に独りの時間を楽しむ様になったと思います。
高校に入る時、心に決めた事が有るのです。
『目立たない様に生きる』
決して、委員長とか、見本になるとか引き受け無い‼️
ひっそりと生きて自分の時間を生きて行こう。
ようやく私は両親の価値観の中で生きるのではなく、自我が目覚め始めたのかもしれません。
なにしろ、自分の時間が欲しかったのです。
放課後は一目散に美術部に逃げ込んだ私。
其の部活で人生の友達に出逢ったのです。
自然の会話で気持ちが合い本当に楽しかったのを覚えています。
やっと私は自分の居場所を見つけたのです。
ある日の学年対抗の体育祭の時。
当時の私はと言うとスポーツから離れていて身体も相当、鈍っていたと思います。
しかし身長が高かったのでバレー部から声が掛かり、人数合わせの一員として選ばれてしまったのです。
もう人の価値では生きない。『引き受けない人生を生きる』と決めたはずなのに、元来頼られると断れない性格。
バレー等した事がなかったが私でしたか、何となく入り、入ればそれなりには頑張ってみた私がそこに居たのです。
結果は負け。
皆は体育館の床に拳を叩き付けて泣いていました。
私は涙が出なかった。
「何で泣かないの⁈」と、突っ込まれたが・・・
私は私のやりたかった事でなかった。
自分の中では頼まれたから、喜んで貰いたくて参加したはず。
参加するにはとそれなりに努力をして来た私。
私はその時ふと思ったのです。
何時も、両親の躾のなかで、確かに一生懸命やりこなしてはいたが、
そこには、自分の欲求からの「やりたい‼️」ではなかったのです。
私は人の価値観の中で常に生きていたのです。
そこには本当の私は居なかったのです。
いつしか常に父母のイエスマンになっていた。
常に両親に喜んで貰いたかった。
大好きな両親に褒めて貰いたかったのだと今ならわかるのです。
人の価値観で生きる事は最後に虚しさに出会ってしまうのです。
本当の自分の居場所を作る事。
自分自身が心の底からやりたい事、自分の価値観を知ることこそ、何を学ぶより、何をするかよりも重要な事だと思います。
【誰かアルバイトをしてくれないか?】
ある年の年末に父から声がかかったのです。
私は人を集めました。
いつも父に喜んで貰いたい私。
父に褒めて貰いたい私。
【できたか?】尋ねる父
【今日中にここまでは出来ると思います】
と敬語で答える私
そんなやり取りを見ていた私の同級生は言いました。
【もらいっこなの?】
【親子でなぜ敬語なの?】
今思えば数奇な家族w
高校では目立たなくをモットーに生きていた私。
そんな私にある日
母から
「社交ダンス教室へ予約したから、今日から行くわよ」
呆然とする私。
意味がわからない私に母は続けて言いました。
「社会人になってダンスのひとつも踊れなくて、お相手の足を踏んでしまっては恥ずかしいのよ」
学校から帰るや否やセーラー服姿のままの私を母が送迎。
翁先生の指導のみという約束で
ワルツ、ジルバ、と進み、楽しかったのを覚えています。
「えみこ、今から百貨店にいくぞ!」
よく父親から声がかかりました。
常に新しいものをキャッチしたい何事にも熱血漢の父。
私の意見や考えを良く聞いてくれたのです。
ワイシャツについて私は私の考えを語りました。
生地や襟、柄まで、一般的なものではなく、当時のトレンドの最先端について私の考えを述べると、そんな子供の意見にも真剣に耳を傾けて聞いてくれる父の姿がそこにはあったのです。
そんな父に憧れていつしか私がこの会社を引き継いで自分で事業をやる事を夢見ていたのです。
そんな夢は後に女の子だからというだけで打ち砕かれる事になるのですが。。。
ある日の役員会議
父の声が聞こえてきたのです。
「今の商品を半分にする!」と恫喝。
動揺する社員たち。
怯まず父は
【何を言うチャレンジだ!】
【婦人服をやる!】
家業は変革期を迎えていたのです。何も変わらなければ時代の波に飲み込まれて衰退して行くだけなのです。
これは今も昔も変わりません。
常に時代は動いているのです。
その風を巧みに掴み方向を決めて行く父の姿がそこに有りました。
高校卒業後の私はというと東京のドレスメーカー女学院に2年間学びました。
やるからには常に本気の私。
真剣に学んでいた私にある日教授から「あなたはデザイナー科に進みなさい」と言われたのです。
その頃デザイナーになりたかった私。
自分がデザインした服が世の中に出る、女性たちがそれを着て世の中を歩いている。そんな夢を見ていたのです。
そして、家業は婦人服に進出していた。
そんな父に認めて貰いたかったのがその時にもあったのかも知れません。
私は夢を父に語った。
しかし、その夢は叶わなかったのです。
東京での生活は2年間の約束。
それは
絶対の約束だったのです。
父は私を手元においておきたかったのかも知れない。
とにかく、私のデザイナーへの道はその父の一言で打ち砕かれたのでした。
私は幼きときより家業は【私が継ぐ】と決めていた。
何だかわからないが自分自身で勝手にそう決めていたのです。
兄たちよりよっぽど私は父が大好きだった。
私の方が父をわかっている。
そして何より、私の方が家業をわかっている。そんな自信がどこかにあったのです。
そんな事は実際は無かったのですがなぜか自信だけはあったのです。
実家に帰り父の仕事を手伝っていたある日【婦人服】が入荷した時、私に聞いてくれた父。
常に新しいチャレンジをしていく父と、その度に私に意見を求めてくれる父。
父の新しいチャレンジに最初に大きな小売業の社長が言ったのです。
【大将の挑戦に俺も乗ってみる】
時代の波に乗り家業は大繁盛。
皆さんも見たことありませんか?
道東一のファッション問屋。
父の会社に入ってその家業は洋品問屋でしたので、学院での生地の勉強をした事が大いに役に立ったのです。
ある日、そんな私に転機が訪れたのです。
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◆【第二話】結婚と新たな人生の出発~商売修行時代~
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◆【第四話】ネットワークビジネスの問題点とは?~誰も気付けない真実~
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