親から植え付けられたべき思考への反論
すいばりです。
自分は親から、こうすべきという「べき思考」を多く植え付けられていて、成人した今も苦しんでいます。
例えば苦手な飲み会でもみんなを楽しませないといけない、けれど苦手なことや特性もあってどんなに頑張ってもできない、といった感じです。
今回はそういったコミュニケーションに関するべき思考を洗い出し、それにセルフ反論することで、べき思考という呪いを解くファーストステップにしたいと考え記事を書きました。
自分がどうしてこうなったかという成育歴は以下を見てください。
自分のコミュニケーションに関する特性については以下です。
以下、べき思考とそれに対する反論を上げていき、さらにその根底にある心理を考察します。
一言補足すると、自分のべき思考は、自分にのみ一方向で機能するようです。
つまり、もし「嫌なことをされても我慢するべき」というべき思考が自分にあっても、自分が人にそれを課すことはないです。
ようするに自分以外のすべての人は「嫌なことをされたら反発していい」、ただし自分だけは「嫌なことをされたら我慢するべき」だと考えています。
どうしてこういう考え方をするのかも本記事で考察します。
べき思考①:大切なものを棄損されても我慢するべき
大切なもの、例えば趣味で集めているものなどを捨てられたり壊されたりしても我慢しないといけない、というべき思考です。
こんなの当たり前ですが… 明らかにおかしいと思います。
いかなる理由があっても人の大切なものを棄損してはならないです。
もし棄損されれば強く抗議するべきだし、人にそういうことをするなら猛烈な反発(暴力や暴言に発展するかもしれません)を受けることを覚悟すべきです。
大切なものというのは人を投影していると思います。
それを蔑ろにするのはその人自身を蔑ろにするのと同じです。
基本的人権の観点からも、これは大人も子供も関係なく全人類で保証されると考えます。
自分は、児童期に親から、以下のような人権の侵害を受けました。
気になっている人との関係に過剰に干渉され、断ち切られる
大切なものを無断で捨てられる
兄弟が自分の大切なものを壊してもお咎めなく、自分に対しては我慢を強要される
書いていて深い悲しみと怒りが湧いてきました。
ただこれは、正常かつ、べき思考を解くには必要な怒りと考えます。
いい調子です!
次に進みます。
べき思考②:苦手なことでも耐えるべき
自分が苦痛だったり怒りや辛い思いを感じる場でも、その苦痛の克服のために耐えるべきという思考です。
これは場合や程度によると思います。
学業や仕事、それに結び付く場面などで、苦手意識の克服のために経験するのはありうる話だと思います。
苦手だからと避けていては、成長の機会すら失うためです。
ただ、何回かトライしてみて、むしろ苦手意識を強める結果になったり、数日ダウンして生活に影響を及ぼしたりする場合、避けるよう方針を変えるべきと考えます。
それでもなお克服を強要するのは自己肯定感の低下や、このような人生にわたって苦しめられる強いべき思考の醸成につながると考えます。
自分の場合、苦手なコミュニケーションに関する叱責が辛かったです。
親戚の集まりなどで部屋に引きこもろうとすると叱責され、その場にいることを強要されました。
それがむしろコミュニケーションへの自信をなくす悪循環となりました。
「おまえは働いていないからわからないだろうが、こんなのじゃ就職してからもっと苦しむぞ」というのは日常的に言われていました。
得意なこと好きなことの否定もありました。
自分はものづくりが好きで、ゲーム制作、プラモデルやイラストなどに学生時代、熱中していたのですが、そんな気持ち悪いことはやめろと何度も叱責されたり、嘲笑われたりしました。
それでも、ものづくりへの執着だけは死守して取り組んでいました。当然、何度も揉めましたが。
苦手なことに対するべき思考は実家を出てから、大学進学や就職後も響きました。
明らかに苦手だと思うことでも、成長のためにやらないといけない。やらないと何か悪いことをしている気がする。
コミュニケーションだけではなく、学業や仕事の面でもこのべき思考が働きました。
このべき思考は今はかなり抑えられていますが、特に飲み会などのコミュニケーションの場面で出てきます。
自分が自分に声をかけるなら、苦手なことより得意なことを伸ばせ!
これにつきます。
同じことに苦しんでいる人がいるとしたら、30年生きてきた身として、言いたいです。
苦手なことに意固地になって克服を試みるより、楽しいこと好きなことに時間をかけましょう。そこで仲間を作りましょう。
絶対健全です。楽しいこと好きなことを大切にしてほしいです。
凸凹があって何が悪いのですかね?
人間ってみんなそういうものでしょう。
立場を利用した叱責(学生に対して、これができなくて今苦しんでいたら、将来働いたときもっと苦しむぞ というやつ)も悪質だと思います。
時代も変わっていくし、まったく同じ道を歩むわけでもないのに、なぜそう言えますかね。
なにより、救いを求めて相談してこれを言われた方の絶望感は計り知れないです。
こう言われると、立場の差がある以上、「そんなのわからないでしょう」くらいでしか否定が難しいのです。
このスタイルで叱責してくる人間にまともなやつはいない、くらいに受け止めましょう。
べき思考③:会話している相手を楽しませるべき
雑談や宴会などコミュニケーションの場において、会話している相手を楽しませるべきだという思考です。
これは②と連動していると思います。
苦手な飲み会でも耐えて行くべきだし、加えてその場を盛り上げるべきだというニュアンスです。
前述したとおり、親戚の集まりで参加を強要されたうえで、自分の兄弟がものすごくコミュ力が高かったため、そこと比較されてお前もコミュニケーションをとれ(場を盛り上げろ)、という話です。
これは基本的に仕事でもなければ気にしなくていいと思います。
例えば自分が最年長だった場合とか、気を回す必要がある場面というのは確かにあります。
ただ、それを気にしすぎて自分が場を楽しめない方がよっぽどつらいし、相手にもその楽しめてなさは伝わると思うので。
第一に自分が楽しんでるか? と自問自答してみて、楽しんでないのなら、そこまで頑張らなくてもいいんじゃないですかね。
上下関係に厳しい人とかは、何か言ってきたり思う人もいると思いますが。
言わせておけばいいですよ。
ここまでべき思考と反論を書いてきました。
その根底にある心理を考えたいです。
根底にあるのは無能感
根底にあるのは自己否定、無能感だと思います。
心の根っこで自分をどうしようもない無能だと思っているから、何かができないとその場所にいてはいけないという理論です。
無能な自分は大切なものを壊されても文句は言えないし、苦手なことでも我慢して取り組まないといけないし、自分は楽しめなくても相手を楽しませないといけない、という理論です。
この強烈な自己否定は以前の記事で書いた、自己愛の欠落とそれを補うかたちでの自己愛性パーソナリティ障害の構築にもつながります。
この無能感がある理由はシンプルで、前述した親とのエピソードや学校でのいじめなどが原因だと思います。
冒頭で述べた、べき思考が自分にのみ一方向で機能するのも、他者と比較して自分を非常に低く見ているからだと思います。
自分だけ不当な扱いを受けていても、反発するのではなく、自分はどうしようもない無能だからしょうがない、と考える思考回路が30年かけて実装されてしまっているようです。
僕たちはどう生きるか
この無能感への対応は結局、これまでの反論のまとめになると思います。
自分の感情、考えを大切にする
1を満たせない環境や阻害する人物がいるなら、そこに長く留まらない
できることは凸凹でいい
好きなことを伸ばして、仲間をつくる
苦手なことには数回トライし、きついなら一旦やめる
自分が心地いいか? を自問自答する
心地よくない環境は基本的に避ける。避けられなければ、時間を決めて取り組んだり、自分を楽にする工夫をして臨む
おわりに
言語化することで、自分のべき思考と向き合うことができた気がします。
まだまだわからないですが、時間がかかっても、この無能感や、べき思考をほどいていけたらなと思います。
ここまで読んでいただきありがとうございました~。