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真面目さと不真面目さのバランス感覚

ゲシュタルト崩壊していく。
オタクなので格好良くてよくこの言葉を使いたくなってしまうけれど、
あらゆることを考えれば考えるほどにゲシュタルト崩壊していく。
哲学もひとつではないように、何が何だかわからなくなってくる。

ゲシュタルト崩壊(ゲシュタルトほうかい、独: Gestaltzerfall)とは、知覚における現象のひとつ。全体性を持ったまとまりのある構造(Gestalt, 形態)から全体性が失われてしまい、個々の構成部分にバラバラに切り離して認識し直されてしまう現象をいう。
例えば同じ漢字を長時間注視しているとその漢字の各部分がバラバラに見え、その漢字が何という文字であったかわからなくなる現象である。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

「おもしろさ」にはいくつもの面白さがある。
以前も同じ話をしたので申し訳ないのだけれど、
ベクトルの問題でおもしろさが変わると感じている。
ベクトルは「←↖↑↗→↓」みたいなイメージだ。
Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)。
TPOでも「おもしろさ」は全く変わってしまう。
「これがおもしろい」と一概に言えない。

最近「おもしろさ」のゲシュタルト崩壊がすごい。
「意外性で興味を惹く」なんて、おもしろさが飛んでいる。
「ベタな展開」なんて、おもしろさがおもしろくないということだ。

そうやって考えると、
全パターンを網羅しておもしろさを何十通りでも使い分ければいいと感じたりもする。ある程度のテンプレートは大事だ。
ただ「ベタな展開」と飽きられてしまうと、「意外性」をどんどん取り入れていかなければならない。

システム的にベタな「正解」と「テンプレート」を探すのは「真面目」だと感じる。先人の切り開いた発見、知識、技術、方法、法則などは宝だ。
ただ「正解」がないものも多く、探せば探すほど泥沼にはまっていく。
間違わないように慎重に。
他が許せなくなっていく。こうじゃないと、このはずだ。なのになぜ。
そして動きにくくなっていく。

にんげんで意外な「自由気まま」にするのは「真面目じゃない」と感じる。
それだけで何かを為せるのは「天才」と呼ばれる人だと思う。
好き放題に動いて、やりたいように自由にして革新的な発明をして人を惹きつける。のびのびと自由に。
受け入れられなくなっていく。突拍子もなく、砕けていて、ストレート。
そして理解されなくなっていく。


私の中ですごいと感じる方は、
大体そのバランス感覚がいい人だ。

「真面目さと不真面目さのバランス感覚」がまだ取れずにいる。


ガチガチの思考より、ふにゃふにゃの思考より、
ある程度かたまった芯と柔軟性がある思考がいい。

これは、どの仕事にでもいえることだと感じている。

手を抜き余裕をもち、
手をかけて心をこめる。
その采配を、自分のマインド、メンタルをどうコントロールするか。
いつ、どう使うか、どう魅せるか。
このバランス感覚を身につけたいと思っている。

それはもしかすると一生身につかないのかもしれない。

誰もが自分を律するために日々戦い続けているように感じる。
一つ楽になるために判断基準をもつには、
やはり自分の哲学や正義をもつことだとも感じる。
(※この場合の正義は「自分の在り方の理想」として)

「正義」の反対は「正義」だ。絶対の正しさはない。
これを書いている私も正しくない。
でも「あなた」は正しい。
もし間違っていたなら素直に上書きして、
いつでもいくらでも正していけばいい。

「こう思う」という自分への期待を、
裏切らずに生きていくことができればいいなと、
改めて心に宿すことができた一年だった気がする。


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