Xの友人の文才がありすぎて嫉妬する

X(旧Twitter)をやっている。
私のアカウントは、実姉、中学校からの友人、ドール趣味の友人、アニメ趣味の知人、ゲームを一緒にやる友人知人、店をやっている時の友人、パートナー、好きな企業、好きなライターさん、好きな作品のクリエイター、全部いっしょくただ。
理由はひとつ。
嘘をつくのが苦手だし、めんどくさいからだ。


Xの身内、友人、知人の投稿が大好きだ。
みんな思い思いに自由にポストしている。

そんな中で、
「もうこれは最高のエンタメ!」
「駅に飾ってあるポスターのキャッチコピーよりおもしろい!」
「新聞でコラム書いた方がいいよ!」
「わかるわかる! 魂の叫び最高!」
秀逸なツイート…つぶやき…ええと…ポストをする友人がいる。

友人は、「自分のため」「私のような友人に向けて」「作品愛の魂の叫び」「日々の思うこと」をXでポストしている。
誰かのため、とか、人気になるため、とかじゃない。

絶望する。
「わたし結構おもろいぞ」とメンタルを辛うじて保っている時、
突然目に飛び込んできた他愛のないおもしろポストに愕然とする。
いいね数は3。ああ。この世の中は非情だ。

かつて、mixiが流行していた。
あしあと機能が特徴的で、いつもあしあとを眺めてうれしくなっていた。
(今はどうかな…当時はドキドキしたけれど、今あるとすればちょっと見に行く(あしあとを踏む)のを躊躇ったりするのかもしれない…?
Xの他人のいいねが見れなくなったことも、私はとてもいいなと思っている。人目を気にせず好きなだけ「いいね」を押せる。
人に見せる自分は取捨選択したい。めんどくさがりなせいでサブアカウント、という感じが苦手なので、プライベートな部分を他人に見せてしまう心配がない「いいね」が人に見えない今の仕様は好き)

わたしも当時、毎日一生懸命mixi日記を更新して、
夢中でマイミクと日記を見せ合って意見交換して仲良くしていた。
本当に楽しくて、幸せで、mixiにのめりこみすぎて、ずっとmixiをしていた。
「これはまずい」と思って、携帯電話から何度かmixiを消したこともある。

突然mixiで「つぶやき」機能というものがでてきたことがあった。
写真もつけられず、文字のみだった。
私ははじめ苦手だった。
「おはよ~」「みんな元気?」など、多くのマイミクさんが「交流ツール」として使っていたからだ。

今思えば、私は「作品公開コンテンツ」として楽しんでいたように思う。
誰かの「作品」を楽しんでいた。
それが、つぶやきの「日々の生活」「挨拶」「愚痴」「雑談」で、
作品が下がってしまう(日記が減ってしまう)のではないかと心配した。
みんなが、挨拶で満足してしまうようになれば、私が好きだったあの人も日記を書かなくなってしまうかもしれない。

結局、私はあまり「つぶやき」には参加しないままmixiを卒業した。

そして、しばらくの間、プライベートのブログは一切しなくなった。


とあるゲームを遊んで、とても興味深くて誰かの意見が聞きたくなった。
ゲームのコミュニティに入り、仲良くなった方と2か月ほど、ほぼ毎日攻略情報を交換した。
また、他のゲームを遊んで、とても興味深くて誰かのレビューが見たくなった。
2013年9月上旬ごろ、はじめてTwitterに登録した。
多くの方がイラストや考察をのせていて、わくわくした。
いつの間にか自分も考察をのせるようになっていた。


私は夢を見ている。
文字に、言語に、文章に、書くに、夢を見ている。
「好き」や「叫び」の熱がこもった文章に、夢を見ている。
「熱い思いをぶちまけた文章」というものに、夢を見ている。

冷静に「~でしょう」「~といえます」といえると、とてもいい。
ただ、冷静だとしても、その言葉の奥底に、メラメラと燃える暗い情熱があって欲しい。

軽い言葉は軽く見える。知らんけど。
上辺をすくった、ええ恰好で書いた無機質な文字の羅列に見える。
芯と心のある言葉が見たい。

AI、嫌いじゃないよ。
でも、AIにはできないことがある。
意味のわからない理解不能な心がある。
人間にはそれぞれの偏ったこだわり、クセ、辿ってきた人生、きれいじゃない思い、取り繕えないもの、叫びがある。
人間はきたなくて、美しい。
不条理で、理不尽で、愚かで、バカで、自己顕示欲があって、理解してほしくて、誰かに構って欲しくて、誰かと共鳴したくて、非効率で、優しくて、温かくて、愛に溢れていて、非合理的で、贔屓して、お人よしで、間違う。

私はそれを愛している。


X、そんな場所があることがとても嬉しい。

どうか、変わってしまわないで


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